玉の輿エピソード

玉の輿の語源!京都の八百屋の娘 お玉の成りあがりストーリー

玉の輿の語源については諸説ありますが、京都の八百屋の娘「お玉」とする一説があります。

ここでは、玉の輿の語源といわれている京都の八百屋の娘「お玉」が将軍の母にまでのぼりつめたシンデレラストーリーをご紹介します。

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玉の輿の語源とは?

玉の輿の意味は次のとおりです。

玉の輿(たまのこし)は、女性が金持ちの男性と結婚することにより、自分も裕福な立場になること。

wikipediaより

玉の輿の語源は、一説によると京都の八百屋の娘「お玉」が、江戸の将軍家に嫁いだことだと言われています。

お玉の生まれた場所の近くにある、大徳寺の総見院では「玉の輿」をお玉の事だと語り伝えています。

また、同じく近所にある京都の今宮神社(別名を玉の輿神社)の名物あぶり餅は、これを食べるとお玉のようなご利益がある、という言い伝えがあるのです。

お玉の玉の輿エピソード

玉の輿に乗ったお玉の生い立ち

京都の一庶民の生まれのお玉

お玉(のちの桂昌院)は、徳川5代将軍綱吉の生母です。

寛永4年(1627年)に京都堀川通西藪町の八百屋 仁右衛門の次女として生まれ、お玉と呼ばれていました。

お玉の母(鍋田氏)も、京都で評判の美女であったそうです。

お玉の出自は、八百屋の娘、西陣織屋の娘、畳屋の娘、大根売りの妹などいろいろな説があります。

ご家紋は「違い大根」。そのため、八百屋さんの娘さんの可能性が高いといわれています。

お玉の実父が亡くなった後、母はお玉を連れて、公卿の二条家に仕える公家侍、北小路(本庄)太郎兵衛宗正の家に奉公に上がったのでした。

母はそのまま宗正の後妻となったということです。

幕末の水戸藩について書かれた、山川菊栄著「武家の女性」によると、「妾奉公に上がった女性が正妻になることはなかった」とあります。

時代も違うし、京都の公家侍と水戸藩士の家という違いもありますが、これはやはりお玉の出世により、お玉の母も正妻とみなされたと見るのが正解のような気がします。

お玉には姉がいて、やはり二条家に仕える侍の大宮宗賀と結婚しています。

玉の輿の舞台となった江戸時代の結婚風習とは

将軍家も大名家も、正妻が産んだ子でなくても後継ぎになれた

ヨーロッパ王室の、キリスト教徒が神の前で愛を誓った結婚の形式では、正式な結婚相手である正妻との間に生まれた子供でないと王位継承はできません。

一方、日本では正妻に子供がない場合は、側室との間に生まれた子供が跡を継ぐのに、何の問題もありませんでした。

家光のために春日局が作ったハーレムが大奥の基礎に

綱吉の父である3代将軍徳川家光は、若い頃は女性に興味を示さず、正室の鷹司孝子とは最初から折り合いが悪く別居していたのです。

そこで家光の乳母のお福さん、春日局が心配しました。

このままでは家光に子孫がなく、徳川本家の血筋が絶えてしまうからです。

春日局が、必死で家光の気に入るような若い女性をかきあつめてできたのが、大奥の始まりです。

出自などかまっている余裕がなく、とにかく家光が気に入るかどうかが一番だったのでしょう。

長女千代姫を産んだお振りの方は、春日局の祖心尼の姪で石田三成の縁者にあたりますし、長男家綱の母などは、実父が罪人であることまで隠しもせず、はっきりと史実として出ているありさまです。

逆に考えれば、大奥は美貌と才覚と運がある若い女性ならば、誰でもシンデレラになる可能性を秘めていたと言えます。

お玉が玉の輿に乗るきっかけ

お玉が仕えた永光院お万の方とは

お玉は最初、家光の側室お万の方の側仕えをしていました。

永光院お万の方は、京都の公卿、六条家の娘。

尼寺の慶光院の尼門跡になるため得度し、生涯独身で仏に仕えて過ごすはずでした。

将軍家光挨拶したのち、伊勢の慶光院へ入って仏門の暮らしをするはずが、伊勢へ行かずに江戸城大奥で暮らすことになったのです。

この境遇の激変により、側に仕える女性が必要になります。京都の実家に依頼して募集したのでしょう。

そして、お玉はそれに応募して採用されたのだと思われます。

とにかく、お玉は江戸へ下向しました。
13歳とも16歳とも言われています。

そしてお玉は大奥に入り、お万の方に仕えました。

お玉は春日局の目にとまります。

春日局がお玉を部屋子として修行させた後に、家光の側室、お手付き御中臈(おちゅうろう)として加えたのでした。

3代将軍家光の次男と4男を産み、御部屋様へと出世

お玉は、正保2年(1645)に、家光には次男になる亀松を産み、正保3年(1646)に家光の4男になる徳松を生みました。

大奥では、将軍のお手付きとなり男の子を産むと、御部屋様(おへやさま)と呼ばれ、女の子を産むと御腹様(おはらさま)と呼ばれます。

お玉は御部屋様の御中臈お玉の方と呼ばれることになりました。

なお、徳松は後に5代将軍綱吉となります。

2歳年上の綱豊の母お夏の方とはライバル

お玉には、険悪の仲のライバル、お夏の方がいました。

お夏の方は京都の生まれ。父は京都の町人、弥市郎でした。

家光の正室で、中之丸殿と呼ばれた鷹司孝子の女中、それも「御末」(おすえ)という、お目見え以下の下働きでした。

お夏の方は、将軍が大奥で入浴するときの御湯殿係をつとめていて、家光の御手付き中臈となり、次男の綱豊を産みました。

大奥の女性同士の争いは有名です。

お夏とお玉は、御手付き中臈のライバルだけでなく、同じ京都の庶民出身で、お夏の息子綱豊とお玉の息子綱吉は2歳違いと、色々な意味での競争があったことは想像できますよね。

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息子綱吉のために、お寺を建てまくった

お玉の子、綱吉は5代将軍になったものの、子供が生まれても夭折し、育ったのは娘の鶴姫だけでした。

もともと信心深いお玉は、自分が将軍の母となった幸運を神仏のおかげと、いっそう信心深くなっていました。

そして、将軍の母となったことで、その信仰の篤さからきた願掛けは、けた外れになりました。

お玉は、あちこちの寺院に多額の寄進をするだけではなく、建物の再建、修復に努めました。

護国寺を建立し、京都での縁の深い善峯寺、今宮神社、勝持寺、金蔵寺、乙訓寺などなど、今でも桂昌院建立、寄進の建物があちこちに残っています。

そしてお玉は、後継ぎに恵まれない綱吉のために、僧隆光の言を用いるようになりました。

実家の兄や弟はお玉の縁で大名に

お玉の母は、本庄氏と再婚後、お玉には異父弟に当たる本庄 宗資を産みました。

お玉の子、綱吉が知行をもらい家臣団を付けられた頃には、お玉の実家の兄弟も綱吉の家来となりました。

仮にも4代将軍の弟の母方の、伯父、叔父にあたる人たちが、いつまでも公家に仕えているわけにはいかないのですね。

お玉の弟は、徳川家の親戚筋に与えられる松平姓ももらってしまいました。

そして綱吉が将軍になって以後、お玉の兄と弟は次々と知行を加増され、なんと7万石から1万石の譜代大名となって明治まで続いたのです。

江戸時代の侍は、基本的に先祖が関ヶ原や大坂の陣などの武功をたてて与えられた知行米で生活していたのですが、平和で戦争もない元禄の頃に大名になれたお玉の兄弟の話は、まさに夢物語。

なお、このような一族の女性が後継ぎを産んだことで出世した大名を、蛍大名と言ったそうです。

将軍の母として女性最高位を受勲されるときにおきた、赤穂事件

お玉は、貞享元年(1684年)に朝廷から従三位を授けられ、元禄15年(1702年)には、女性として最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜りました。

あの浅野内匠頭が吉良上野介に遺恨を持って起きた松の廊下の殺傷沙汰(赤穂事件)は、このお玉のために朝廷からの勅使を招く儀式のときに起こった事件でした。

母お玉への最大の親孝行を台無しにされて、綱吉が怒りにまかせて浅野内匠頭を切腹させた、といえなくもありません。

玉の輿のその後

息子綱吉が将軍に

慶安四年(1661)に将軍家光が逝去したとき、 徳松(のちの綱吉)は6歳でした。

お玉は34歳でしたが、慣例どおり尼となり、桂昌院という院号を与えられました。

息子の徳松(のちの綱吉)は、家光の教えに従い、勉学に励みました。

後に湯島聖堂を建てるくらい論語にはまり、儒教の教えを重んじる人物に育ちました。

徳松は元服して綱吉となり、将軍連枝として15万石を、次いで上野舘林27万石を与えられました。

家光亡き後は、綱吉の長兄で5歳年上の11歳の家綱が4代将軍になりましたが、家綱は病弱で跡取りが育たなかったのです。

そして家綱が40歳で亡くなると、跡目争いが起きました。

鎌倉幕府の前例にならって、大老の酒井忠清は京から親王を将軍に迎えようとしましたが、春日局の養子でもある老中の堀田正俊が反対し、結局、綱吉が5代将軍になりました。

5代将軍母君として三の丸様と呼ばれるように

お玉は、将軍となった息子綱吉の江戸城入りに伴い、江戸城中三之丸に住むことになります。

お玉は三之丸様と呼ばれて、大奥で絶大な権力を発揮するようになりました。

生類憐れみの令

将軍になった綱吉は、儒教の教えを重んじた文治政治を行いました。

戦乱の世から遠くなった平和な時代で、江戸文化の華が咲く元禄時代を迎え、新井白石、室鳩巣らの学者も輩出しました。

前述のように、お玉は神仏に感謝して数々のお寺に寄進し、修復や建て直しもしまくりました。

将軍綱吉も、各地の皇室御陵を修復し、京都の皇室や公家の知行を増やしたのです。

この綱吉の治世の前半は、天和の治と言われる善政でありました。

が、治世の後半になると、老中ではなく側用人を重用し、あの有名な生類憐みの令を発令してしまいました。

綱吉に後継ぎが出来ないのを心配するあまりに、お玉が頼りとしていた僧 隆光の「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる」を信じて綱吉に進言したのが元だとされています。

特に綱吉が戌年生まれで、犬を大事にするように徹底されたため、綱吉には、「犬公方」というあだ名がついたほどでした。

現在では、生類憐みの令は、僧隆光の言ではないとの説が有力で、生き物全般を大事にする善政として見直されています。

処罰された人も多く、新井白石ら同時代の学者の批判もあり、この生類憐みの令のせいで、お玉と綱吉の評判が歴史上ガタ落ちになってしまいました。

玉の輿エピソードからわかった!玉の輿のチャンスをつかんだお玉の成り上がり術とは

いつもの行動範囲の外に出る

家から離れる仕事でも、思い切って行ってみる度胸も必要です。

京都人というのは、京都を離れるのを嫌がる人が多いそうです。

お玉はまだ若い頃に一大決心をして江戸へ下ったことでしょう。
自分の美貌に自信を持っていたか、野望を持っていたのかもしれません。

とにかく自分を信じて思い切った行動に出ることも、玉の輿に乗るためには必要なのですね。

側室でも、夫に先立たれても、子供をしっかり育てる

お玉は側室ということもあり、家光は夫というより、雇い主というかボスという意味でのご主人さまでした。

息子の綱吉も、自分のかわいい息子という前に、将軍連枝として親子であっても親子でない、幼い息子に敬語を使うような感じだったのではないでしょうか。

それに息子についての相談をしようにも、綱吉が4歳のときに家光は亡くなってしまったのです。

家光は「綱吉が4男なので、兄を敬うように論語を読んで勉強して儒教の教えを身に付けるように」と言っていたそうですが、お玉はそれを綱吉にしっかりと教えたことでしょう。

大所帯を切り盛りする能力

お玉は、幼くして将軍連枝として15万石を預かった息子綱吉に代わって、与えられた屋敷の管理、屋敷で仕える人たちを仕切る必要もありました。

のちには、将軍になった綱吉について江戸城に住むことになり、いわばファーストレデイ―になったのです。

もちろん細かいことまでお玉一人でする必要はないでしょうが、庶民の生まれの女性が若くして人の上に立つには、相当な覚悟や裁量の能力も必要だったのではと思います。

お玉は着物の襟や袖に、当て布をして着用する習慣がありました。

これは、召使いがお玉の着物をお下がりとして拝領する習慣があるために、お玉としては、汚れないようにという気配りだったようです。

生まれながらのお姫様はこういう気配りをしないものですが、誰もが庶民の出と知るお玉が同じことをすると、奢っていると思われることを気にしたのかもしれません。

玉の輿の結婚をすると、今まで自分が育った環境と違って、親戚縁者との付き合いのほか、お手伝いさんや従業員がいたり、大所帯を仕切ることになります。

華やかなパーティーや接待ばかりではなく、ややこしい人間関係に神経を使ったりすることも多いのです。

こういう場でも自分をしっかり持って、物事に立ち向かう賢さや度胸、気配りも身に付けておきましょう。

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