玉の輿エピソード

【日本】最後の将軍の愛妾に学ぶ!知っておいた方がいい玉の輿にのった結婚後の苦労3つ

ネコ先生
ネコ先生
こんにちは!玉の輿専門学校のネコ先生です。

玉の輿にのった歴史上の人物から学べることはたくさんあります。

この記事では、玉の輿にのったお幸・お信という歴史上の人物のエピソードから、玉の輿による結婚を成功させたあとの苦労についてご紹介していきます。

お幸とお信は最後の将軍徳川慶喜の愛妾として、明治後もずっと慶喜に仕えた女性たちです。

玉の輿に乗ったからといって幸せな毎日というわけではありません。

苦労もあることを知っておいて覚悟をしておいた方がよいのです。

それではさっそくいってみましょう!

お幸・お信の玉の輿エピソード

最後の将軍徳川慶喜の愛妾として、明治後にもずっと慶喜に仕えたお幸とお信という方々がいました。

ふたりは同じような江戸生まれの旗本の娘でとても仲がよく、生まれたお子さんたちも仲良く育ち、実質上の慶喜の家族であった女性たちでした。

玉の輿に乗ったお幸・お信の生い立ち

お幸(さち)の生い立ち

本名は中根 幸で、嘉永4年(1851年)ごろの生まれとされています。

旗本の中根芳三郎(正丙)の娘として生まれ、後に旗本の成田新十郎の養女となり、慶喜家に奉公に上がったのです。

お信(のぶ)の生い立ち

本名は新村 信で、嘉永5年(1852年)生まれとされています。

旗本の松井勘十郎、または松平政隆の娘として生まれ、同じ旗本の荒井省吾の養女となったのち一橋慶喜のお小姓頭取で後主計頭、そして明治以後は慶喜に仕えた新村猛雄の養女となり、慶喜家へ奉公に上がりました。

広辞苑を編集した言語学者の新村出は同じく新村猛雄の養子で義弟にあたります。

舞台となった時代背景

最後の将軍徳川慶喜とは

お幸とお信のご主人である徳川慶喜は、徳川御三家のひとつ水戸の13代斉昭公の7男として生まれました。

母は正室の有栖川宮吉子女王で、幼名は七郎麿です。

幼い頃から期待されて、父斉昭は後継ぎはいるものの控えに置きたがりましたが、ペリー来航など慌ただしい時代にしっかりした将軍をと、島津斉彬などの賢公と言われる名だたる大名たちから「慶喜を徳川宗家の将軍に」という推薦の声があがりました。

そして、慶喜は将軍になれる御三卿である一橋家に養子に出されました。

そもそも島津斉彬が天璋院篤姫を13代将軍家定に嫁がせたのも、家定に14代将軍を慶喜にするように吹き込むためでありました。

ただ、天璋院は大奥の水戸嫌いの風潮にすっかり染まってしまい、14代は紀州の慶福(後、家茂と改名)になってしまいました。

しかし14代家茂は短命ですぐに亡くなったので、慶応2年に慶喜が15代将軍になりました。

その後の慶喜が将軍として行ったことは、慶応3年大政奉還です。

そして慶応4年の鳥羽伏見の戦いの後、大坂城で一戦を交えようとする幕臣たちに「明日が決戦」とげきを飛ばした後、夜闇に紛れて会津桑名兄弟、酒井ら老中というトップを連れて大坂城を抜け出し軍艦開陽丸で江戸へ逃げ帰り、勝海舟たちに後を任せて自分ひとりで蟄居謹慎していたのです。

この大坂城での総大将にあるまじき敵前逃亡という行動は、朝敵になるのを恐れたとか色々な説があります。

慶喜は明治2年に許されて静岡に旧家臣たちと移り住み、明治30年には東京の巣鴨に居を移し、34年には小日向に転居します。

徳川公爵家を興して貴族院議員になり、大正2年に77歳で亡くなるまで趣味三昧の悠々自適の余生を送りました。

お幸、お信が玉の輿に乗るきっかけとなったできごと

慶喜の正妻は一条家の姫

慶喜は安政2年(1855年)に一条忠香の養女で今出川公久の娘美賀子と結婚しました。

娘が一人生まれましたが夭折、その後は子供に恵まれず、美賀子夫人と慶喜との仲はうまくいっていなかったようでした。

慶喜は将軍になっても江戸城には入らなかったのですが、美賀子夫人も江戸城へ入らず、維新後の慶喜の蟄居時代も美賀子夫人は面会もできず別居していました。

明治2年に慶喜が蟄居を許されてやっと美賀子夫人は静岡に赴き、お幸、お信との間に生まれた子供たちの嫡母とされました。

写真で側室を選んだ将軍

慶喜は明治になって自転車に乗ったり、写真撮影が趣味だったりと文明の利器を先取りする人でしたが、なんと慶応3年頃に側室候補の写真を撮影して持ってこさせて、お幸とお信を選んだのです。

慶喜には、鳥羽伏見の戦い直前に大坂城を抜け出すときも連れて帰った新門辰五郎の娘お芳などの側室がいましたが、明治後はお幸とお信の二人をのぞいてすべて暇を出してこの二人だけを側に置き、身の回りの世話もさせていたということです。

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娘の嫁ぎ先へたくさんのお土産

お幸、お信ともにたくさんの子供に恵まれ、その子たちは皇族をはじめ、旧公家や旧大名家である華族の子女と結婚しました。

お信もお幸も「おたたさま」(お母さま)「おばば様」とは決して呼ばれず、じつの子や孫に「お幸」「お信」と呼び捨てにされました。

名前で呼ばれる日陰の存在であったとしても、人間的なお付き合いはきちんとあったようで、人力車や馬車で自分付きの女中さんにたくさんお土産を持たせて、娘や孫の嫁ぎ先にお見舞いやご機嫌うかがいに訪れたということです。

入院は特等室で

病名ははっきりしていないのですが、お信は明治38年に亡くなる前には屋敷内でも別居して療養していました。

いよいよとなったときの入院先は、脚気の専門医のいる慈恵医大病院の前身である共立・東京病院なので、脚気の疑いが濃厚です。

そして特等、上等、下等とある病室のなかで、一日の入院費が5円という特等室に入りました。

入院費が5円とは、今でいうと約10万円くらいの値段です。

亡くなってはじめて「信子殿」となる

徳川慶喜家の家扶日記によれば、お信は奉公人としてそれまで呼び捨てであったのが、亡くなって埋葬する段になってはじめて「格直り」という手続きがされて、殿がつくようになりました。

そして実家と養家にそれぞれ弔慰金千円と四百円が贈られました。

また、おそらくお信の息子で慶喜家の後継ぎの慶久と美枝子女王と縁談が進んでいたらしい有栖川宮家からお悔やみと共に「新村のぶへ」と、皇族並みの金一万円という高額の祭儀料も送られたということです。

玉の輿のその後

側室より老女須賀の方が上役

側室より老女須賀の方が上役でした。

慶喜の奥を取り仕切っていたのは、「老女」と称する女中頭の須賀でした。

お幸とお信は、側室なのに慶喜の雇い人として老女須賀の下に位置していたのです。

ふたりで12人ずつ子供を産み、6人ずつ育った

お幸とお信は、姉妹のように仲が良くて、どちらの子供もどちらかと思うほど分け隔てなく育ったということです。

また、最初は生まれてもすぐ亡くなった子が多かったのですが、静岡で一般家庭に養子に出して育ててもらったところ健康に育つようになったということです。

最初の頃はお大事にお大事にと、日光にも当てず暗いお座敷で育てるのが悪かったそうです。

それに乳母が張り切って貴人の赤ちゃんのために胸に白粉を塗ったのですが、その白粉に鉛が入っていて赤ちゃんが鉛中毒になるという話もありますし、ただでさえ麻疹や天然痘や結核、肺炎で簡単に亡くなっていたころなので、一般家庭以上に上流家庭の子供が育つのは大変だったのですね。

お信は明治38年に、お幸は大正4年、徳川慶喜は大正2年に亡くなりました。

ずっと仕えた老女須賀、そして美賀子夫人と共に、谷中墓地の一郭で神式の慶喜とその家族たちの墓の後ろにそっと葬られています。

お幸とお信についてはそれほど史料もないのですが、どういう扱いであっても長年の慶喜との生活で実質上の家族であったことは、この慶喜とお幸・お信が同じ場所に葬られているお墓の様子で伺われると思います。

参考文献(Amazonリンク) 女聞き書き 徳川慶喜残照 遠藤幸威著 

玉の輿エピソードからわかった!知っておいた方がよい結婚後の苦労3つ

価値観や生活レベルの違いに苦労する

お幸の娘が華族の家にお嫁に行き、孫ができると慶喜家に遊びに来るようになりました。

お幸は「おばば様」とは呼ばれなくても、孫のために自分の部屋で七輪を出して女中さんにどら焼きを作らせたそうです(こういうことを自室で出来る慶喜家は自由な雰囲気で、他の華族の家ではないことだったそうです)。

孫が喜んだので、たくさん作ってお土産に持たせて家に帰したら、お幸の娘である母は「まア、お幸が」とびっくりして、「老女などに言わないでね」と悲しそうな顔で言われたそうです。

玉の輿の結婚をすると、かなり価値観や実際の生活のレベルが違うことがあるのです。

庶民的な「お好み焼きやたこ焼きが好きだ」と言っても、共感されずにちょっと窮屈な思いをするかもしれないので注意が必要です。

嫁ぎ先の行事やしきたりを尊重しよう

お幸もお信も旗本の娘として生まれたというのは、大名家ではないにしても武家の娘としての教養やしきたりなどに通じていたといえるのですが、それでも写真選考の後、養女として格上の旗本家で行儀作法を仕込まれたうえで奉公に上がりました。

現代の日本では考えられないかもしれませんが、玉の輿のお相手となると伝統芸能とか代々継承された貴重な文化を継ぐ家も多いです。

嫁ぎ先の家での華やかな場面だけを見るのではなく、その家の細々とした行事やしきたりなども学んでリスペクトし、子孫に伝える気構えも必要なことがあると肝に銘じておきましょう。

身内にも冷たくされることもある

お幸の娘である蜂須賀筆子の娘の年子は、「自分はお信さんを知らない、会ったことがない」と言ったそうです。

しかしお側に仕えた女中さんによると、明治29年生まれの年子が知らないはずがないのに、そこをあえて知らないふりをする年子にはなにか冷たいものを感じます。

良いお家柄に生まれた人は、あまり自慢できないことだと思えば身内に対してもけっこう冷たい態度をとることがあります。

玉の輿の結婚で生まれたお子さんは、そのお家の生粋ですから、身分違いの家の出身の母親を下に見ることもあるのですね。

子供のうちからそういう目で母親を見ないようにしつけるとか、尊敬を得るようなものと持つ、なによりもしっかりした親子の絆を結ぶことが肝心だと思います。