今回は、玉の輿にのったクーデンホ―フ=カレルギー光子のストーリーを紹介します。
クーデンホ―フ=カレルギー光子は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵夫人となった女性です。
そしてパン・ヨーロッパ運動によってEUの基礎的構想者となったリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の母でもあります。
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目次
クーデンホ―フ=カレルギー光子の玉の輿エピソード
玉の輿に乗った光子の生い立ち
光子の旧名は青山みつ、1874年7月24日に東京牛込の骨董店を営む青山喜八と母津禰の三女として生まれました。
父は明治になって断髪令が出てもちょんまげを結っていたという昔気質の人だったようです。
光子は尋常小学校を中退させられて有名料亭に奉公に出されました。
そして奉公先で三味線や琴、生け花など芸事も学び、その後は父の店を手伝っていました。
舞台となった時代背景
光子が生きていた19世紀には、欧米で万国博覧会が盛んに開催されていました。
1862年の第2回ロンドン万国博覧会で日本からの出品として、駐日公使だったオールコックが自身で集めた刀や自身で収集した漆器や刀剣、版画といった日本の美術品、蓑笠や提灯、草履などが展示されました。
開会式には福沢諭吉もいた文久遣欧使節の一行が参加しました。
この展示品は、日本の国民性の表現として高く評価されて、その後のヨーロッパの日本ブーム、ジャポニズムの契機になったと言われています。
その後、パリ万国博覧会が開催されたときも、幕府と薩摩などから出品がありました。
1873年にはウィーンで万国博覧会が開催されて日本からも出品したので、ウィーン生まれのハインリヒもそのときに日本文化に触れたのかもしれませんね。
ジャポニズムの影響は大変なもので、当時のヨーロッパの画家、ゴッホやモネ、ドガなどの作品には日本の浮世絵が描いてあり、「ミカド」「蝶々夫人」などのオペラも作られアール・ヌーボーにも影響を与えたと言われているのです。
光子が玉の輿に乗るきっかけ
ハインリヒが代理公使として来日
1892年2月にハインリヒ・グーテンホーフ伯爵が代理公使として来日しました。
クーデンホ―フ家は、ハプスブルグ家に仕えた古い貴族の家柄です。
ハインリヒはオーストリア・ハンガリー帝国の外交官として、アテネ、リオデジャネイロ、コンスタンティノープル、ブエノスアイレスに駐在してキャリアを積み、そして代理公使として東京へやってきたのです。
ハインリヒは、トルコ語やアラビア語、ヘブライ語を含む18か国が話せ、仏教にも興味を持っていた学者肌の外交官で33歳でした。
ハインリヒと光子の出会い
ハインリヒと光子の出会いについては色々な説があり本当のところはわかっていません。
日本の骨とう品に興味を持って店を訪ねて光子を見初めて、光子の父に願って光子をオーストリア・ハンガリー公使館に勤めさせたのかもしれません。
日本が幕末に開国以来、横浜や兵庫などには公使館ができて各国の外交官らが駐在するようになりましたが、彼ら外国人外交官は私邸を持ちそこで日本人妻と暮らしていました。
外国人外交官たちが日本人妻をめとったとしてもほとんどは公に結婚した仲ではなく、子供が生まれても日陰の存在でした。
そういうなかで、ハインリヒは勇気ある決断をします。
ハインリヒは3月に正式に光子と結婚したのです。
そして9月には長男が誕生したという早業でした。
「ミツコを侮辱するものとは決闘をする」と宣言していたほど、ハインリヒの光子への想いいれは相当なものでした。
ハインリヒと光子との間には、すぐに次男も生まれました。
そして2人が結婚して4年後にハインリヒの父が亡くなり、一家でオーストリアへ帰国することになります。
当初はハインリヒは外交官としてまたすぐアジアなどの国に赴任するつもりでしたし、ここで光子と子供たちだけを日本に置いてハインリヒひとりで帰国しても当時としてはなんらおかしくないのですが、一家でオーストラリアへ帰国したのはひとときも光子たちと離れたくなかったからなのかもしれません。
これはスゴイ!さすがの財力と権力がわかるエピソード
子供たちにはそれぞれ乳母がついた
光子は、結婚後すぐに長男と次男が生まれました。
息子たちにはそれぞれ日本人の乳母が付いて、夫ハインリヒと共にオーストリアに帰国する際には、乳母もつれて行ったということです。
伯爵家に代々伝わる宝石をプレゼント
光子の夫ハインリヒはオーストリアに帰国後、日本滞在中にロスチャイルド銀行に預けてあった伯爵家に代々伝わる宝石類を光子にプレゼントして与えました。
ただ残念ながら光子はプレゼントされた宝石を見ても、価値がわからなかったそうです。
住まいは城
広大な領地を持つクーデンホ―フ家は、現チェコにあるロンスベルク城に住んでいました。
光子をつれてハインリヒが帰国した際は、街の住民たちが日本の国旗とオーストリアの国旗を飾って大歓迎したそうです。
クーデンホ―フ家の領地内は、とても一日ではまわれないほど広かったということです。
玉の輿のその後
子宝に恵まれる
日本で2人の男の子が生まれた後、オーストリアへ帰ってからも次々と5人の子が生まれました。
さぞ子育てが大変かと思うかもしれませんが、それぞれ乳母や家庭教師がついたので、光子は乗馬を習ったりドイツ語やヨーロッパの歴史を学んだりしたそうです。
ある日、勉強中の息子の質問に答えられなかったことから、光子は家庭教師に頼んで、息子たちに教える前に自分にも同じことを教えてもらって勉強したということです。
夫ハインリヒが46歳で急死
夫ハインリヒは、またすぐ外交官として日本や他の国へ赴任するつもりでいたのですが、管理を任せていた人に領地を横領されていたという問題が発覚します。
そのためハインリヒは外交官としてのキャリアを諦めて、故郷の城に住み自分で伯爵家の領地の管理をすることにしました。
そして光子たちとオーストリアに帰って10年後にハインリヒは急死してしまい、結婚14年、31歳の光子は未亡人となりました。
親族に裁判を起こされて勝利
ハインリヒは光子のためにきちんと遺言状を作っていて、財産はすべて光子と子供たちに残されました。
子供たちが成人するまで光子が後見人として財産を管理することになったのです。
でもハインリヒの親族はそれをよしとせず、子供の後見人をめぐって訴訟を起こしました。
光子は法律を勉強して受けて立ち、裁判で勝ちました。
外国で裁判で勝利することは、とても1人でできることではありません。
おそらくはハインリヒが領地の管理人に横領されたときの弁護士であるとか、光子のためになってくれる弁護士や税理士をハインリヒが生前にあらかじめ頼んでおいたのではと思います。
光子は1941年8月27日にウィーンで、日本の国旗に包んでくれるよう遺言して亡くなりました。68歳でした。
玉の輿エピソードからわかった!お金持ちと結婚するときに注意すべき3つのこと
夫と死別したときの準備をしておく
愛情ある玉の輿の結婚をして幸せいっぱいで毎日を送っていても、いつかは夫との死別の悲しみがくるのは避けられません。
もしものために、事前準備をしておくのはとても大事です。
大金持ちは自分の死後の財産について考えているものなので、光子の夫ハインリヒのように、遺言状も弁護士に依頼してきちんと作ってあると思います。
でも2代目3代目で大金持ちの生活が当たり前みたいになっている男性だと、遺言状を作成するのを忘れてしまっている可能性もあります。
夫にはそれとなく自分が一人になった場合の生活について考えてもらって、生前に遺言状を作成してもらうと万が一のときに路頭に迷うことはありません。
また、きちんとした遺言状を作成してもらっていても、それを不満とする親族との裁判になることもありますので、いざというときに困らないようにお金に関する知識を身につけたり法律を学んでおくことも大事です。
自分で法律を学ばなくても、いざというときに頼れる弁護士や税理士を確保しておくのもよいでしょう。
婚前契約書は慎重に
光子の場合も夫の遺産を巡って夫の親族から裁判を起こされましたが、最近の海外の大金持ちもなかなか複雑な事情があるようです。
海外では親代々の莫大な財産を受け継いだとしても、子孫がばかをやって全部なくしてすっからかんにして恥をかかないように、財産のほとんどは前もって信託財産とし、弁護士事務所などに依頼して管理されていることがほとんどです。
だからものすごい資産家の子弟であっても、毎年とか毎月決まった額のお金が入金されるだけで、自分で働いて稼がないと自由になる大金は得られないようになっていることが多いようです。
また、例えばアメリカは州によって法律が違うのですが、カリフォルニア州などで離婚になった場合、結婚期間に関わらず、妻は夫の財産の半分を分与される決まりになっています。
外国の資産家は離婚時の金銭トラブルを見越して、結婚前に「婚前契約書」というのを交わして自分の資産を守ろうとする人が多いです。
外国の資産家と玉の輿結婚をする場合は、この婚前契約書について、弁護士を雇ってよく吟味し、しっかり協議したうえでサインすることをおすすめします。
芸能人でも神田うのさんが婚前契約書を交わしているといううわさもあります。
日本でも資産家と結婚する前に婚前契約書を交わす場面があるかもしれませんので、注意が必要です。
学歴がなくても努力で教養を身につけ、誇りを忘れない
学歴がなくても努力して知識や教養を身につけることはとても大切なことです。
光子のように知識を身につけることで、裁判を起こされても自分の財産や子供たちを守ることができます。
光子は夫の死後、子供たちの学校生活のためにウィーンに住み、社交界に出入りして「黒い瞳の伯爵夫人」と言われ、花形的存在としてもてはやされるようになりました。
光子は勉強中の子供に聞かれたことが答えられなかったので家庭教師について勉強したとか、夫のためにヨーロッパの歴史やドイツ語などを勉強したり、法律を学んで裁判に勝利したことで、知らず知らずに教養や自信が身につき、ウィーンの社交界でも臆することなく入って行けたのではと思います。
今も残る写真からわかる光子は愛らしい顔立ちで、その頃の流行の先端を行くドレスがぴったりと良く似合い、しゃんと背を伸ばした光子は貴婦人そのものに見えます。
光子の子供たちは非常に優秀で、博士号をとったり本を書いて名を遺した人が多く、次男リヒャルトのおかげで「汎ヨーロッパの母」と言われたことについても光子はとても喜んでいたようです。
光子は晩年は卒中の発作で半身不自由となり次女に面倒を見てもらう生活となりましたが、立派に子供たちを育て上げ、子供たちにも尊敬されて満足のいく人生だったのではと思います。
かつて日本を出発するときに、明治天皇の皇后である昭憲皇太后から、「異国にいても日本人の誇りを忘れないように」と言葉を掛けられたことが、生涯にわたって光子の指針になっていたのかもしれません。
「結婚したいけど、相手がいない」
「出会いがない」
「結婚したいと思える恋人が欲しい」
というように、結婚も考えて恋人をさがしたい人には、結婚相談所がおすすめ。
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