玉の輿エピソード

【フランス】禁断の恋からの玉の輿。儚い幸せ、壮絶ないじめから修道院へ。ルイーズの生涯から考えさせられるひとつのこと

ネコ先生
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こんにちは!玉の輿専門学校のネコ先生です。

今回は、フランスでいわゆる玉の輿にのったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールのストーリーについてご紹介していきます。

ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールは、フランス国王ルイ14世の最初の寵姫となった女性です。

ルイ―ズ・ド・ラ・ヴァリエール嬢の玉の輿エピソード

玉の輿に乗ったルイ―ズの生い立ち

ルイーズの本名はフランソワーズ・ルイーズ・ド・ラ・ボーム・ル・ブランといい、1644年8月にトゥールのラ・ヴァリエール荘園で生まれた田舎の貴族です。

父のロランは士官で、母フランソワーズはパリ高等法院の監督官の未亡人でした。

1651年に父ロランが亡くなった後、母はオルレアン公の司厨長であったサン=レミ侯爵と3度目の結婚をして、ブロワのオルレアン公ガストン(ルイ13世の弟でルイ14世の叔父)の宮廷へ出入りするようになりました。

そしてオルレアン公ガストン没後にオルレアン公妃マルグリット・ド・ロレーヌは、娘たちと共にパリのリュクサンブール宮殿へ移り住み、16歳のルイーズも同行したのでした。

ルイーズが玉の輿にのったきっかけ

ルイ―ズは王弟妃アンリエット・ダングルテールの女官となる

その頃、ルイ14世の弟でオルレアン公を継いだフィリップと、イギリスのチャールズ2世の妹の王女アンリエット・ダングルテール(母はルイ13世の妹なので、ルイとフィリップ兄弟の従妹に当たる)が結婚し、ルイ―ズは選ばれてアンリエット妃の女官となりました。

このアンリエット妃は、子供の頃、清教徒革命で父チャールズ1世が処刑された後、フランス王家出身の母とともにフランスへ亡命して4歳から14歳まで暮らしていました。

そして兄チャールズ2世の王政復古後は、イギリスに戻り、2年後、結婚のためにフランスへ戻ってきたのでした。

王弟妃アンリエット・ダングルテールとルイ14世が不倫関係に

アンリエット妃は、最初、ルイ14世のお妃候補だったのですが、幼少時を知るルイ14世が痩せた女性だと嫌がって、結婚は成立しませんでした。

が、その後、弟と結婚した16歳のアンリエットが非常に魅力的な女性になっていたので、ルイ14世が夢中になったのです。

アンリエットの方も、ルイ14世に結婚を断られたことはちょっと根に持っていたのですが、夫フィリップはゲイだったせいで結婚生活がうまくいかず、寂しさゆえにルイ14世になびいたのでした。

いつの世も義兄と義妹の不倫関係はスキャンダルですが、国王と王弟妃ですからなおさらです。

ルイ14世は当時22歳、同い年の従妹のスペイン王女マリー・テレーズと結婚したばかりでしたが、アンリエット妃のために盛大なパーティーを開いて、暑い夏のさなかに一晩中森で過ごすとか、王妃そっちのけでイチャイチャしていたのでした。

スキャンダルのカモフラージュにされるルイーズ

当時は、王太后アンヌ・ドートリッシュが健在だったので、マリー・テレーズ王妃は、姑(伯母にも当たる)に、ルイ14世が弟妃とばかり一緒にいると泣きついたのです。

アンヌ・ドートリッシュ王太后は、息子のルイ14世にお説教をしました。

でもふたりは離れようとしないので、王太后は、アンリエット妃の夫オルレアン公にルイ14世とのことを言いつけてしまいました。

オルレアン公はゲイだけど、妻の浮気は許せないと嫉妬したこともあって、ルイ14世とアンリエット妃は、このスキャンダルが広まらないように防止策として、ルイ14世が、さも他の女性に恋しているよう見せかけようとたくらみました。

そして、カモフラージュ用の身近な女性を探したのです。

王妃の女官など他に2人候補がいたけど、ふたりとも田舎へ逃げてしまい、おっとりとしたルイ―ズが残ったのでした。

これって、あのチャールズ皇太子とカミラ夫人が、若くて何も考えてないみたいなダイアナ妃を選んだのと似てませんか?

チャールズとダイアナと違うところは、ルイ14世がカモフラージュのはずのルイ―ズに夢中になったということです。

当時17歳のルイ―ズは、美しい肌にブロンドの髪、そして青い目が印象的で、声も笑顔も素敵なおとなしい女性だったということです。

それは肖像画を見てもわかります。

資料がたくさん残っているので、ルイ14世が恋に落ちてルイ―ズと結ばれる期間がわずか2週間だったとか、ルイ―ズの片脚が短かったということまで伝わっています。

そして純粋なルイ―ズは禁断の恋におそれおののきながらも、ルイ14世に熱烈に恋するようになったのでした。

これはスゴイ!さすがの財力と権力がわかるエピソード

5日間にわたって開かれたパーティー

当時の宮廷はトイレがないなど衛生的にひどい状態だったので、住めなくなるほど汚れると、宮廷人全員をひきつれて他の宮殿へ移ったのです。

ベルサイユ宮殿はまだ完成していなかったので、ルイ14世もあちこちの宮殿に移り住んでいたのですが、このパーティーはフォンテーヌブロー宮殿で行われました。

ルイ―ズをわがものにしたルイ14世は、ルイ―ズを喜ばせるために5日間にもわたって大パーティーを開いたのです。

有名な劇作家のモリエールが即興で劇を作ったり、ルイ14世自らがバレエを踊ったりしました。

ルイ14世は、夢中になった女性の事しか見えないタイプなんですね。

正式な寵姫となる

ルイ―ズはルイ14世の愛情だけで、他には何も求めないという人でした。

ですが、正式な寵姫となれば爵位を与えられ、生まれた子供たちも後で国王の庶子として認知されます。

結局、ラ・ヴァリエール公爵位を与えられました。

王妃の隣に座る権利を与えられた

王妃の隣に座る権利を与えられました。

フランスの国王や王妃、公爵らの場合も同様で、身分が違えば一緒に座ることができないのです。

そして国王の御前で座れる身分ではあっても、それぞれ身分の高さによって、ひじ掛けのある椅子、ひじ掛けも背もたれもないスツール状の椅子などの区別もあるほどです。

でも、同じテーブルでカードゲームなどをするときは、それでは不便ですよね。

なので、女性は針仕事をしているときは特別に高貴な身分の人と一緒に座ってもよいという決まりがあったので、一応、ハンカチとか布切れを膝に置いて、同じテーブルを囲んでゲームに興じていたのです。

臨機応変と言うか、偽善的ですよね。

こういう事情があるので、ルイ―ズが王妃の隣に座る権利を与えられたというのは、非常な名誉ということがわかっていただけたでしょうか。

日本でも、時代劇を見ると、大名や将軍など殿様は、床の間のような一段高い位置に座っていますが、もし殿様が家来のいるところに座ったとすれば、家来たちは同じ高さに座ることは出来ず、板の間の廊下とか庭に、文字通り土下座しなければいけないのです。

ミサキ
ミサキ
水戸黄門の印籠シーンですね。

これが身分制度というもので、殿さまには従二位とか三位とかの位があるからなのです。

3月のお節句に飾るお雛様も、なんで壇の上に飾るかと言うと、お人形なのに官位を持っているからなんです。

皇女和宮のお話とか、宮中でのお雛様の話からわかりますが、宮中ではみな官位を持っていらっしゃるので、ひな人形は畳の上に飾るのですよ。

玉の輿のその後

ルイ14世の子供を産み、子供たちは爵位をもらった

ルイ―ズは、ほぼ年子で6人の子を産みましたが、そのうち4人が夭折、2人だけが成長しました。

息子ルイは2歳で海軍大将となりましたが16歳で病死、娘マリー・アンヌは第一ブロア姫と呼ばれ、ブルボン家の分家であるコンデ公爵と結婚しましたが、不幸にしてすぐ未亡人になりました。

子供たちも薄幸の生涯を送った

普通ならば、玉の輿の相手の夫や愛人との愛がなくなっても、子供は可愛がって大事に育てるものですが、ルイ―ズは生まれたらすぐ取り上げられたにしても、自分の子供たちに対してあまり関心もなかったようなのが不思議です。

息子のヴェルマンドア伯爵ルイは、叔父にあたるオルレアン公の取り巻きのせいでゲイになってしまいました。

これは現代とは違い背徳の行いとされ、ひどい扱いを受けて国外追放されてしまったのでした。

息子のヴェルマンドア伯爵ルイが16歳で病死した知らせを受けても、父のルイ14世は涙ひとつ流さず、ルイ―ズも生まれてきたのが悪かったという始末でした。

美しいが悲しそうな肖像画の薄幸の少年が気の毒ですよね。

ルイ―ズに賄賂を贈ったことが切っ掛けでフーケ失脚

貴族と言うのは、現代でも、周旋、つまり人に知り合いを紹介したりして報酬を得ることをするのです。

これって収賄に当たるんじゃないのと言われるだろうけど、このルイ14世の時代は当たり前のことで、ルイ―ズと言えどもルイ14世の側にいるために、色々便宜を図ってもらおうと近づいてくる人に報酬をもらっていたそうです。

そのひとつに、財務大臣のニコラ・フーケが、ルイ14世にとりなしてもらおうとルイ―ズに賄賂を贈ったりしたのですが、ルイ―ズは受け付けず、ルイ14世に言いつけたところ、フーケがルイ―ズに横恋慕かと勘違いし、フーケ失脚の切っ掛けの一つになったということです。

財務大臣フーケは自邸ヴォー・ル・ヴィコント城にルイ14世を招いて盛大なパーティーを催したところ、ものすごい豪邸とあまりの豪華なパーティーにびっくりしたルイ14世がフーケの汚職を疑い、後に銃士隊長ダルタニャン(実在の人物)に逮捕させ終身刑となった人物です。

ルイ14世に別の愛妾があらわれ、強烈ないじめに合う

ルイ14世は、母方の従妹にあたるスペイン王女マリー・テレーズと結婚しましたが、このマリー・テレーズは小人のような子供のようなコロコロ太った人で、ルイ14世は王妃としては尊重しても、愛情は全くなかったということです。

「国王陛下には、たくさんの女性がいたけど、王妃様だけはダメでしたの」と言われています。

ルイ―ズは、そんな王妃にも遠慮がちに宮廷生活を送っていたのですが、ルイ14世に色目を使うライバルはたくさんいたのです。

そのなかでも有名なモンテスパン侯爵夫人が登場しました。

気が強く、自信家で華やかな美人、負債を抱えた夫と結婚後、経済的にも必死で、ルイ14世の寵姫になるために黒魔術さえ行ったというモンテスパン侯爵夫人にかかっては、ルイ―ズなどひとたまりもありませんでした。

ちょっと許せないのは、モンテスパン侯爵夫人がさも友人のようにルイ―ズに近づき、ルイ14世の愛人となった途端にルイ―ズを見下して召使いのようにこき使い(実際、ルイ―ズは化粧係にされた)、ルイ14世もそういうモンテスパン侯爵夫人に追従して一緒にひどいことを言ったりしたということです。

ルイ14世はルイ―ズの部屋の隣にモンテスパン侯爵夫人の部屋を与え、夜になるとカモフラージュのために、ルイ―ズの部屋を通ってモンテスパン侯爵夫人の部屋へ行きました。
モンテスパン侯爵夫人の愛犬を、ルイ―ズに放り投げ「相手しろ」と言ったということです。

ルイ14世はまた、お出かけの際は、マリー・テレーズ王妃とルイ―ズとモンテスパン侯爵夫人を同じ馬車に乗せて移動させたのです。

その様子は3人の王妃と呼ばれていたとか・・・。

最終的に修道院へ入り修道尼となったルイ―ズ

ただでさえ信仰篤く、不倫の立場で王妃に遠慮がちにいるのもルイ14世への愛あればこそなのに、こんなことばかりされていては、おとなしいルイ―ズといえども、たまったものではないでしょう。

たまりかねてルイ―ズは修道院へ駆け込みますが、修道院には断られ、また宮廷へ連れ戻されてしまいました。

カトリックの修道院は無垢の少女は受け入れるが、理由ありの大人の女性を受け容れなかったからのようでした。

ルイ―ズが最初に修道院に駆け込んだときは、ルイ14世自らが馬で駆けつけて連れ戻し、次は廷臣を迎えに行かせましたが、とうとう受け入れる修道院を見つけたルイ―ズは正式に修道女となってしまいました。

ルイ―ズが修道女になったのは30歳のときで、子供たちはオルレアン公の二度目の妻であるエリザベート・シャーロット・ド・バビエール妃に託しました。

36年間の信仰生活の後、ルイーズは1710年に死去し、修道院の墓地に埋葬されました。

ルイ14世の気まぐれな愛情を信じて、ただただ愛情を求めたが得られなかったルイ―ズは、その後の修道院生活でますますはかなくも美しいイメージを歴史に残したのでした。

参考文献 フランス女性の歴史 1 ルイ14世治下の女たち アラン・ドゥコー著、
フランスの歴史をつくった女たち 第4巻 ギイ・ブルトン著

玉の輿エピソードから考えさせられる「短い間でも玉の輿は幸せなのか」ということ

ルイ14世の女性をめぐる話は、資料がたくさんあるようで、本当にこと細かに書いてあります。

まるで日本の平安時代の宮廷のお話のようです。

平安時代のお姫様たちは、父や兄の言うなりに入内していましたが、ルイ14世の宮廷では女性自らが自分を売り込んでいるのが違いますけどね。

ルイ―ズの場合は、自分の意志でルイ14世の寵姫になったわけではないし、寵姫として権勢をふるったわけでもないのに、いじめだけはきつい、まさにリアル源氏物語の桐壷の更衣を見ているようです。

ルイーズは、野に咲くすみれのような女性として、歴史に名を遺したといえます。

ルイ―ズが何も求めず、若く美しくしかもつつましやかな女性だということは、当時から現在に至るまで誰もが知っていると言ってもいいほどです。

ルイ―ズがルイ14世との玉の輿で愛し愛されていたのは、わずか5年ほどの間。

ルイーズはわずか5年ほどの間、ルイ14世の側にいてほんとうに幸せだったのでしょうか。

ルイ―ズのように、玉の輿にのっても夢のように幸せな時は短いかもしれません。

もし玉の輿にのってお金持ちの男性と結婚できたとしても、身内からの嫌がらせがあるかもしれないこと、夫が心変わりするかもしれないなどというリスクがあることも覚悟しておいた方がいいかもしれません。