【オーストリアで玉の輿】エリザベート皇后から学ぶ!結婚するためにすべき3つのこと

ミサキ編集長
今回は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妻エリザベート皇后を紹介します。

自分の運命を大きく変えられる玉の輿に憧れてはいるけれども「具体的に何をすればいいのかわからない」と悩む人は多いのではないでしょうか。

でも、うっとりと憧れていたり悩んでいるだけでは玉の輿に乗ることなんてできません!
玉の輿を現実に引き寄せるための行動をしっかりしていきましょう。

ここでは、実際にあった歴史上の玉の輿のエピソードから、どうやって玉の輿による結婚を成功させたのかというポイントやノウハウを学べますよ。

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目次

エリザベートの玉の輿エピソード

玉の輿に乗ったエリザベートの生い立ち

ドイツのバイエルン王家の傍系公爵の娘として生まれる

美貌で有名なエリザベートは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后です。

1837年12月24日にバイエルン公爵マクシミリアンと、母ルドヴィカの5男5女のうちの次女としてミュンヘンで生まれました。

エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハが正式名ですが、「シシ―」と呼ばれていました。

父マクシミリアンはドイツのバイエルン王室ヴィッテルスバッハ家の傍系でした。

日本で言えば、有栖川宮家とか伏見宮家にあたる皇族の家柄です。

母ルドヴィカはバイエルン国王マクシミリアン1世の王女で、夫のマクシミリアンとの結婚は政略結婚でした。

ルドヴィカの姉たちはみなザクセンやプロイセンの王妃、オーストリア皇帝の母となっているので、自分だけが格下の結婚に甘んじているという気持ちも持っていたようです。

だから「娘たちにはぜひ玉の輿を」と、気合が入っていたといっていいでしょう。

父マクシミリアンは自由人だった

エリザベートはポッセンホーフェン城で7人(夭死が2人)の兄弟たちとともに、伸び伸びと育ちました。

馬や犬が大好きなアウトドア派、いたずら好きで陽気な反面、詩を書く夢想的な少女でした。

父マクシミリアンはエリザベートを可愛がって、狩りに連れて行ったり、街でチターを演奏して小銭をもらうというお遊びもしたし、家族を置いてひとりで旅に出るような放浪癖もあるという、王族らしくない生活を好む人でした。

エリザベートはお父様に似ていたようですね。

玉の輿の舞台となった時代背景

エリザベートの生まれた頃は、日本では江戸時代後期の天保年間で、12代将軍徳川家慶の時代です。

イギリスではヴィクトリア女王が即位し、ヴィクトリア朝の幕開けとなった頃です。

産業革命が起こり、馬車に交替して汽車が登場するようになるのですが、ヨーロッパ大陸ではまだ一触即発の雰囲気で、戦争もあり、平穏無事とはほど遠い時代でした。

エリザベートの生きた19世紀は激動の世紀だったといえます。

未来の夫フランツ・ヨーゼフ皇帝ってどんな人?

エリザベートと結婚することになるフランツ・ヨーゼフは、オーストリア帝国・ハプスブルグ家の皇帝です。

フランツ・ヨーゼフは、フェルディナンド皇帝の弟フランツ・カール大公と、エリザベートの母バイエルン王女ルドヴィカの姉ゾフィーとの4男1女の長男として生まれました。

そして1848年に子供がいなかった伯父フェルディナンド皇帝の退位後に18歳で即位しました。

父のフランツ・カール大公は、本来は皇帝になるはずでしたが、てんかんなどの病気がちのため皇位継承を辞退し、フランツ・ヨーゼフが皇帝になることが約束されていました。

母ゾフィー大公妃は、夫フランツ・カール大公の病気のことは承知で結婚し、生まれてきた息子に賭けていたのです。

そして未来の皇帝にふさわしいように長男のフランツ・ヨーゼフを厳しくしつけ、成長して皇帝になった後も、ことあるごとに「自分のおかげで皇帝になれた」と言って、息子に恩を着せる人でした。

母ゾフィー大公妃は、正式には皇后ではなかったのですが、ウィーン宮廷では女官たちから「皇后陛下」と呼ばれ、絶大な権力を持っていたのでした。

息子フランツ・ヨーゼフ皇帝は周囲の期待に応えて、真面目でしっかりした青年に育ちましたが、母に頭が上がらず、絶対服従でした。

典型的なマザコンですね。

なお、フランツ・ヨーゼフ皇帝の肖像写真は、真っ白い頬髭を生やした威厳のある老皇帝ですが、若い頃の肖像画は、すらりとしてスマートに軍服を着こなしたなかなかのイケメンです。

玉の輿に乗るきっかけとなったできごと

姉ヘレナのお見合いに同行したことで運命の出会い

ゾフィー大公妃は、22歳になる息子のフランツ・ヨーゼフの結婚相手を探していました。

まず最初に、プロイセン王女アンナ(ゾフィー大公妃の姉の娘)に白羽の矢を立て、息子のフランツ・ヨーゼフも気に入ったのですが、残念ながらアンナは非公式にヘッセン選帝侯国のフリードリヒ・ヴィルヘルム王子との婚約が決まっていました。

ゾフィー大公妃はアンナの相手に圧力をかけたのですが、この結婚を通してドイツ帝国統一の目論見があったビスマルク首相に拒絶されたそうです。

そして、ゾフィー大公妃は、自分のすぐ下の妹ルトヴィカの長女ヘレナのことを思い出したのです。

おとなしい性格だと聞く18歳のヘレナがふさわしいのではないかと、妹ルドヴィカと姪ヘレナを避暑地のバート・イシュルへ招待して、息子とお見合いさせることにしました。

前述のように、母ルトヴィカは娘たちの結婚相手として玉の輿を狙っていたので、これはまたとない機会ととらえました。

そしてヘレナと侍女ひとり、そして出発直前になって、15歳のエリザベートを行儀見習いにと連れて行くことにしました。

これが運命の出会いとなったのです。

フランツ・ヨーゼフが一目惚れしてしまった

いとこ同士のフランツ・ヨーゼフとエリザベートは、前にも会ったことがありました。

ですが、そのときは18歳と11歳だったので、フランツ・ヨーゼフはまだ子供のエリザベートに関心がなく、年の近いフランツ・ヨーゼフの弟のカール・ルードヴィヒがエリザベートに夢中になったのでした。

しかしこのバート・イシュルでのフランツ・ヨーゼフは、ヘレナの後ろにいるエリザベートを見た途端に、エリザベートから目が離せなくなってしまい、エリザベートが怖がるくらいに凝視したそうです。

ゾフィー大公妃はヘレナの事しか考えていなくて、まさか息子がエリザベートに夢中になるとは思いもしなかったのでした。

エリザベートの「歯並びが悪い」とか「歯が黄色い」とか、「あんなお転婆な子なんて」と、エリザベートが気に入らないことを息子に言いますが、なんと、それまで一度も母に逆らったことがないフランツ・ヨーゼフが、このことだけは絶対に譲ろうとせず、エリザベートと結婚するという固い決心をしたのでした。

フランツ・ヨーゼフ、真面目な青年が熱烈に恋するとこうなるのでしょうか。

「エリザベートは実に可愛い」と、エリザベートのことばかり話して夢中になったのでした。

エリザベートはフランツ・ヨーゼフの求婚を受け入れて、「あの方が皇帝でなければいいのに」と言ったということです。

いかにも純粋な若い女性らしくて、とても微笑ましいですよね。

婚約が決まったエリザベートはさっそくお妃教育に入りました。

色々な国を治めるハプスブルグ家の未来の皇后として、様々な語学教育から歴史などを詰め込まれたのです。

エリザベートはこのときにハンガリー語を学び、終生ハンガリーについて大変な興味を持つようになりました。

これはスゴイ!さすが玉の輿の生活!権力と財力がわかるエピソード

豪華絢爛な結婚式

1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナ教会で枢機卿の司式の結婚式が行われました。
その後にシェーンブルン宮殿の鏡の間で祝賀舞踏会が行われ、招待客は3000人でした。

靴は一度しか履かない

エリザベートの靴は、ビロード、絹、サテンでできているので丈夫でないにしても、一日はいた後は女官に下げ渡す慣習がありました。

お嫁入り道具は、ドレスが43着、うち儀式用が17着、喪服、普段着6着に夏服が17着、舞踏会用ドレスが3着、それにベール、ケープ、外套に下着類と、着る物だけでもすごい量でした。

もちろんこれに、夫フランツ・ヨーゼフ皇帝からのプレゼントの宝石類がてんこもりとなって加わりました。

フランツ・ヨーゼフ皇帝自身は大変質素な生活をしていましたが、その後もエリザベート、どんな贅沢も許したし、とても気前良く大金を払いました。

ギリシアのコルフ島に別荘を建てる

エリザベートは地中海にあるコルフ島が気に入り、絢爛豪華な城「アキレイオン」を建設させて別荘としていました。

現在は島の観光スポットになっている、真っ白でとても美しい宮殿です。

ヨーロッパ中を偽名で大名旅行

エリザベートは、ウィーンを離れて、実家のポッセンホーフェン城や、イギリスのワイト島、イタリア、コルフ島、スイスなどを偽名で旅行しまくりました。

お供に女官たちにコック、末娘マリー・ヴァレリーの養育係や家庭教師など、総勢30数人連れで大荷物で移動するので、すぐにエリザベート皇后と分かったそうです。

エリザベートは、ヴィクトリア女王の別邸オズボーンハウスがあるワイト島に滞在しても、ヴィクトリア女王の招待も断り、挨拶にも行かないという不愛想なところがありました。

美容関係にたっぷり時間と手間とお金を掛けた

エリザベートは子供4人を出産後も、身長170cm、体重50kg、ウエスト50cmをキープすることに固執していました。

この抜群のプロポーションを維持するために、時代を先取りした美容体操や競歩、ジョギング、乗馬、それに果物と牛乳だけとか、生に近い豚肉を食べて牛の血を飲むとか、色々な食事療法に凝り、無理なダイエットをして、体を壊すほどでした。

また1mもある美しい自慢の髪は、卵と香料入りコニャックで毎回3時間もかけて手入れをさせていたそうです。

そのおかげか、いくつになってもその年齢には見えない美貌であり続けました。

玉の輿のその後

18年に及ぶ、嫁姑のバトルが待っていた

フランツ・ヨーゼフ皇帝とは愛しあっていたのですが、エリザベートが嫁いだのはオーストリアのハプスブルグ家なのです。

まだ16歳で堅苦しくない家庭に育ったエリザベートは、いきなりヨーロッパの伝統ある皇室の皇后としての生活に突入しました。

宮殿に住み、しきたりに縛られた生活だけでもしんどいでしょうに、姑のゾフィー大公女がエリザベートの自由奔放さを嫌い、ことあるごとにダメ出しをして型にはめようとしたのです。

宮廷生活というのは、常に女官が何人も伺候しているので、高い身分の人はひとりになれない、プライバシーのない生活がお約束です。

エリザベートは実家から侍女を連れてくることも許されませんでした。

最初から知らない人の間に放り込まれたと言っていいでしょう。

そのうえにその女官たちが姑からのスパイとして、エリザベートの一挙一動を常に監視しているのです。

ちょっとした失敗なども重大事件のように報告されて、あとで姑のゾフィー大公妃に叱責されるのでした。

そして、子供が生まれても、姑のゾフィー大公妃が「4人の息子を育てた経験」を楯に、エリザベートから取り上げてしまったのです。

エリザベートは、しきたりや慣習の枠にはめられるのを何よりも嫌う人なのに、夫への愛情をあらわしただけでも叱られ、そして母親として子供たちにおもいきり愛情を注ぐこともできず、ノイローゼ気味になっていきました。

エリザベートがプロポーション維持や自分の美貌保持に固執したのも、ハンガリーひいきをこじらせたのも、ウィーンにいると病気がちになったのも、おそらくこの最初からの姑ゾフィー大公妃とのバトルからくる強迫観念が原因なのではないでしょうか。

家柄自慢の義妹ともバトル

フランツ・ヨーゼフ皇帝の次弟マクシミリアン大公は、ベルギー王女シャルロッテと結婚しました。

ドラマ「女王ヴィクトリア、愛に生きる」で登場した「レオポルド叔父様」、ベルギー国王レオポルド1世の娘でヴィクトリア女王の従妹にもあたります。

シャルロッテ王女は母がフランス国王ルイ・フィリップの王女だということもあり、自分の方が格が上だとばかりに、皇后であってもバイエルン公爵令嬢にすぎない義姉のエリザベートを見下して、対抗心を燃やしていました。

ゾフィー大公妃はマクシミリアン大公がお気に入りで、シャルロッテ王女も気に入っていたので、エリザベートはたまらなかったでしょう。

このマクシミリアン大公は後にメキシコ皇帝になりましたが、革命で銃殺され、シャルロッテ王女は精神に異常をきたして実家へ戻り、ベルギーの城で幽閉されて86歳で亡くなりました。

転地療養を名目に、ウィーンの宮廷を離れる

エリザベートはゾフィー大公妃との嫁姑バトルと堅苦しい生活のせいで健康を害してしまい、侍医のすすめで転地療養としてマデイラ島に療養へ行きました。

23歳のときです。

そして具合が良くなってウィーンへ帰って来ても、すぐにまた具合が悪くなるので、その後はずっと、短期間ウィーンへ帰って家族と過ごしては、またヨーロッパや北アフリカなどを転々と旅行する生活になりました。

それは姑のゾフィー大公妃が亡くなった後も続き、ついにウィーン宮廷になじむことはありませんでした。

オーストリア皇后としての役割をほとんど果たさないエリザベートでしたが、その美貌のおかげで大衆の人気は絶大なもので、人々を魅了してやまなかったのでした。

一人息子ルドルフの死

エリザベートは結婚後すぐに妊娠して、女の子が生まれましたが、エリザベートの了解もなくゾフィー大公妃の名をとってゾフィーと名付けられ、その子は数年で夭折しました。

続いて次女ギーゼラ大公女も生まれたものの、後継ぎの男の子が産まれないことで、ゾフィー大公妃に嫌がらせめいたことまでされたようです。

3人目に待望のルドルフ皇太子が誕生しましたが、親権はゾフィー大公妃に取られたも同然でした。

実の子なのにギーゼラ大公女もルドルフ皇太子も、小さいときは母であるエリザベートに懐かなかったということです。

またルドルフ皇太子の教育をめぐっても姑とのバトルとなり、エリザベートは自分に似て繊細なルドルフ皇太子を心配しつつも、なかなか思うとおりの育て方ができなかったのです。

ルドルフ皇太子は成長後、ベルギーの王女シュテファニー(マクシミリアン大公妃シャルロッテの姪)と結婚しましたが、この結婚はうまくいかず、エリザベートもこのシュテファニーが気に入りませんでした。

そしてルドルフ皇太子は1889年マイヤーリンクで謎の死を遂げました。

情死とも暗殺とも言われていて、この事件は謎のままです。

エリザベートは息子ルドルフの死を嘆き悲しみ、以後ずっと黒い喪服で通しました。

エリザベートは1898年9月10日に、ジュネーヴ滞在中に無政府主義者に暗殺されて61歳で亡くなりました。

フランツ・ヨーゼフ皇帝は嘆き悲しみ、「エリザベートをどれだけ愛していたか、誰もわからないだろう」という言葉を残しています。

参考文献(Amazonリンク) 麗しの王妃エリザベト ジャン・デ・カール著
黄昏のウィーン 須永朝彦著

玉の輿エピソードからわかった!私にもできるお金持ちと結婚するためにするべき3つのこと

①苦労があることも覚悟しておく

親戚でよく知った仲でも、姑に気に入られないとトラブルのもとになります。

エリザベートの姑であるゾフィー大公妃は、実の伯母でもありました。

自分の血のつながった姪なら可愛いはずだけど、おそらくゾフィー大公妃は、エリザベートが父マクシミリアンにそっくりな自由人であるところが気に入らなかったのでしょう。

いやむしろゾフィー大公妃は、身内だからこそ遠慮なく意に従わせられると思ったのかもしれません。

結婚前からすでに、エリザベートがゾフィー大公妃に書いた手紙で、親しみを込めて書いたつもりが、敬語を使っていないと叱責されていました。

ドイツ語の二人称「Du」を使ったら叱られて、二人称敬称の「Sie」を使えと言われたのだと思います。

無味乾燥で形式を重んじた心にもない文を書くことを強要されるなんて、詩人であるエリザベートは耐えられなかったでしょう。

エリザベートは決して玉の輿を夢見て結婚したのではありませんでした。

まだ16歳で何もわからず、ただ従兄のフランツ・ヨーゼフとの愛を信じて愛し合って結婚したのですが、周囲の大人、特にフランツ・ヨーゼフはもっと冷静になって、ウィーン宮廷で自由奔放なエリザベートが暮らしていけるのかを考えるべきだったのではと思わざるをえないです。

この後の数々の悲劇を知っていれば、誰もが反対したでしょう。

ハプスブルグ家は莫大な財産があり、結婚後は贅沢な生活が待っている、その当主がぞっこんになったからといって、愛情があればなんとかなるというわけではないのです。

贅沢な生活と一緒に抱えきれない責務、しきたりの保持、そして後継ぎの男児を産むプレシャーが待っているということも覚えておきましょう。

②誘われたら顔を出して、出会いを逃さない

母のルドヴィカが、なぜ急に、予定になかったエリザベートを連れて行こうとしたのかわかりませんが、もしエリザベートを連れて行かなければどうなっていたのだろうと思わざるを得ません。

どこでどんな出会いがあるかもしれないので、親戚の集まりには顔を出すようにしましょう。

そして伯母さん、伯父さんたちにはきちんと挨拶しておく、いとこ同士も仲良くしてネットワークを広げておくと、思いがけない出会いがあるかもしれないですね。

③自分を磨き続け、常に美しくあること

自分を磨き続けて美貌を保つのはけっこう大変です。

子供を4人産んだあとも、プロポーションをキープし続けるのは並大抵な努力ではありません。

エリザベートはストイックに自分を磨き続ける努力家。若い頃もさぞかし自分に厳しく、美しさを保っていたことでしょう。

その美しさのために、フランツ・ヨーゼフに見染められたのです。

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