今回は、現イギリス女王エリザベス2世の祖母である、メアリー・オブ・テックをご紹介していきます。
目次
メアリー・オブ・テックの玉の輿エピソード
玉の輿に乗ったメアリー・オブ・テックの生い立ち
王族出身のメアリー・オブ・テック
メアリー・オブ・テックは、1867年5月26日にロンドンのケンジントン宮殿で生まれました。
父はテック公爵フランツ、母はケンブリッジ公爵の長女メアリー・アデレードです。
メアリー・オブ・テックの祖父は、NHKで放送されたドラマ「女王ヴィクトリア、愛に生きる」で、「ケンブリッジ叔父様」として登場しました。
メアリー・オブ・テックには「ヴィクトリア・メアリー・オーガスタ・ルイーズ・オルガ・ポーリン・クローディン・アグネス」という長い正式名がありますが、メアリーの愛称である「メイ」と呼ばれていました。
王族だけど両親はお金持ちではなかった
メアリー王女の父フランツは、ドイツのヴュルテンベルク王族でした。
王族でしたが、両親が貴賤結婚だったために王位継承権がなく、軍隊に入るしかありませんでした。
貴賤結婚とは
どちらかが高貴な身分で、どちらかが低い身分の者同士の結婚のこと。
キリスト教の結婚は一夫一婦制であるため、王族やその親族は、身分的に釣りあいのとれる相手との結婚が重視されました。
臣下や身分の隔たりのある相手と結婚した場合は、本人や子孫の継承権が剥奪され、宮廷行事での席次にも影響が出たのです。
現在はこの制度は撤廃されました。
そしてフランツは、すでに30代になっていたイギリス王族ケンブリッジ公爵の次女(4歳年上)と結婚したのです。
「彼女にはイギリス王室からの年金収入があるから」という経済的な理由の結婚です。
メアリー王女の両親は、ヴィクトリア女王から、ケンジントン宮殿の数室とカントリーハウスとしてホワイトロッジに邸宅を与えられました。
メアリー王女の両親、特に母は収入は少なくても社交好きで、王族としての生活をするために借金を重ねていました。
そしてイギリスに居づらくなって、一家はヨーロッパの親戚を頼って転々と暮らしたのです。
メアリー王女はこのヨーロッパを転々とする生活の中で、ヨーロッパ大陸の文化や美術品に親しみ、知識を深めていきました。
舞台となったイギリスの時代背景
メアリー王女が生きたのは、ヴィクトリア女王の時代でした。
ヴィクトリア女王は、従弟のアルバート公と結婚して9人の子供に恵まれます。
その9人の子供たちがさらにドイツ王族やヨーロッパ各国の貴族と結婚したので、ヴィクトリア女王にはヨーロッパじゅうに孫たちが大勢いました。
なので、ヴィクトリア女王は「ヨーロッパの祖母」といわれたくらいです。
昔の王室は政略結婚が多かったのですが、19世紀になると親族の結婚式などの集まりで出会いがあり、普通に恋愛し、両親の許しを得て結婚することが多くなっていました。
親族、縁続きの王室や貴族とはいえ、愛情のある結びつきでの結婚が増えていた時代です。
が、メアリーは違いました。
メアリー王女は、「事情のある人」とお見合いをすることになったのでした。
玉の輿に乗るきっかけとなったできごと
メアリー王女のお見合い相手はイギリス王室の後継ぎ
メアリー王女のお見合い相手は、ヴィクトリア女王の長男のエドワード皇太子の長男でした。
クラレンス公爵アルバート・ヴィクター王子です。
このときアルバート・ヴィクター王子は27歳でした。
彼は評判の良い人ではありませんでした。
「読み書きがやっとで、話題に事欠く、精彩に欠ける、うつろな顔つき」で、官能的な生活にしか興味を示さない人でした。
そして、性病の治療を受けている、愛人もいる、大酒飲みで痛風持ち、果ては同性愛者だの、当時の連続殺人犯、あの切り裂きジャックの疑いまであったのです。
彼が無気力で頭が悪いことは、両親も祖母のヴィクトリア女王も見抜いていました。
なので、招来国王になる彼を支えるには、相当しっかり者の妻が必要だと思っていたのです。
最初に彼の妻の候補になったのが、ヘッセン公女アリックスでした。
ヴィクトリア女王のお気に入りの孫娘です。
でもアリックスは、「強制ならば従うが、彼との結婚は絶対に嫌だ」といったそうです。
アリックスは、後のロシア皇帝ニコライ2世と結婚しました。
そのほかの従妹たちにも逃げられてしまいました。
そしてアルバート・ヴィクター王子は、「フランスのルイ・フィリップ国王の孫にあたるパリ公爵の娘と結婚したい」といいだしましたが、改宗の問題もあり実現しませんでした。
ヴィクトリア女王は、従妹の娘のメアリー王女を思い出し、彼女の写真を見て実際に呼び寄せました。
メアリー王女は金髪で青い目をし、24歳になっていました。
当時としては、ちょっとお年頃を過ぎようとする年頃です。
メアリー王女は、ヴィクトリア女王にとても気に入られます。
それも「今後もイギリスの君主制が生き延びるために、将来の鍵を握るのは、後継ぎアルバート・ヴィクター王子の、妻というより保護者になれるような若い女性にかかっている」と期待を持たれることになります。
そして、メアリー王女とアルバート・ヴィクター王子はお見合いすることになりました。
お見合いはうまくいき、婚約も公表され、結婚式の日時も決定します。
ですが、なんと彼は肺炎にかかり、6週間後に亡くなってしまいました。
婚約者が亡くなり、意外な展開に
アルバート・ヴィクター王子は評判の悪い人でしたが、若死にはいつの時代でも悲劇的なことです。
国民的にも悲しみが盛りあがり、メアリー王女は悲劇のヒロイン的な存在になりました。
そしてヴィクトリア女王以下、エドワード皇太子夫妻も、メアリー王女をこのまま手放すのは気の毒だと思いました。
「喪が明ければ、弟のジョージ王子にメアリー王女を」と、誰もが思っていたようです。
ジョージ王子は、当時すでに結婚をきめた相手がいました。
従妹のひとりで、マリアです。
恋愛関係にあり、結婚の承諾も得ていました。
ですが、結局ジョージ王子とマリアの関係は破談となります。
そしてアルバート・ヴィクター王子の喪が明けたあと、ジョージ王子は正式にメアリー王女と婚約しました。
メアリー王女は将来の皇太子、国王になる人と結婚が決まり、玉の輿に乗ることになったのです。
これはスゴイ!さすがの財力と権力がわかるエピソード
今に伝わる豪華なティアラ
メアリー王女に贈られた、豪華で有名なティアラがあります。
その名も「ガールズ・オブ・グレイト・ブリテン・アンド・アイルランド・ティアラ」。
現代まで伝わるその派手なティアラは、今ではチャールズ皇太子のカミラ夫人が、女王の許しを得て身に付けています。
貴族の家宝を強奪!
メアリー王女は、貴族の館を訪問して、その貴族の家に代々伝わる家宝を見せてくれるように話を持っていき、その家宝をほめちぎるのが上手だったそうです。
そして、気をよくした貴族が「差し上げましょうか」といわざるを得ない状況に追い込み、その家宝を手に入れていました。
家宝を分捕られた貴族は、みな涙にくれたそうです。
メアリー王女が家宝を手に入れるやり方は「良く言っても強盗の一歩手前」とさえいわれました。
また、イギリス王室はロシアのロマノフ家と親戚関係がありました。
ロシア革命のときには海軍の船を差し向けて、エドワード7世の叔母にあたるマリア皇太后とその娘たちを救出しました。
メアリー王女は、この義理の叔母マリア皇太后らの宝石をも「強奪した」のでした。
その後、孫のエリザベス女王が最近になって、祖母メアリー王女が強奪した宝石の代金を支払ったそうです。
玉の輿のその後
浮気もなく幸せな結婚生活
メアリー王女とジョージ王子は、1893年7月6日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚式を挙げました。
結婚後はサンドリンガム宮殿に住み、5男1女をもうけました。
のちに皇太子となりジョージ5世として即位した夫は、愛人も作らず、王妃となったメアリーと不仲という噂もありませんでした。
ジョージ5世との結婚生活も幸せなものだったようです。
ジョージ5世の父、エドワード皇太子には何人も愛人がいました。
当時は愛人がいるのが普通の時代でした。
だから、ジョージ5世が愛人をつくらなかったのはとても珍しいことでした。
それほどメアリー王妃はジョージ5世に愛されていたのでしょう。
内助の功で王室を支えたメアリー王妃
メアリー王妃は夫を支え、王族としての義務を果たします。
第一次世界大戦中にジョージ5世は、敵国ドイツにちなんだそれまでの家名を、王宮のある
ウィンザー城にちなんでウィンザー家に改名します。
メアリー王妃も、父方のドイツではなく、母方のイギリス王室の血を強調しました。
第一次世界大戦後のヨーロッパでは、ロシア皇室に代表されるように、革命などで滅びてしまう王室は多くありました。
ですが、第一次大戦中にジョージ5世は、イギリスのナショナリズムを意識した王室の意向を大々的に宣伝し、国民の結束を呼びかけます。
ラジオ演説で国民を励ますこともしました。
1917年に王室婚姻法を改正し、王族が王族でない英国民と結婚できるようにもしました。
王室に対する熱狂的な支持を国民から得るのにつながり、王室の地位は盤石になったようです。
寂しかった子供たち
メアリー王妃は王室の伝統にのっとり、子供たちを乳母や家庭教師に任せきりにしていました。
そのため、祖母のアレクサンドラ王妃が代わって孫を可愛がったということです。
メアリー王妃の長男エドワード皇太子は、母の愛を得られない寂しさから女性遍歴を重ねたのでした。
メアリー王妃の末子で、障害のあるジョン王子は、ドラマ「ロスト・プリンス~悲劇の英国プリンス物語」で取りあげられています。
ドラマ内でも、家族が揃う家庭イメージはありません。
子供たちだけ別の屋敷に住み、教育係に育てられていた様子が描かれています。
夫の死後も影響力大だった
メアリー王妃は、王太后になっても影響力は絶大でした。
自分の息子であっても、王室の品位を汚す言動に対しては、非常に厳格な対応をしました。
特に、長男のエドワード皇太子とシンプソン夫人とのスキャンダルのときも、メアリーは長男エドワードの退位に影響力を及ぼしたと言われています。
メアリーは息子のジョージ6世よりも長生きし、孫娘エリザベス女王の戴冠式の前に85歳で亡くなりました。
玉の輿エピソードからわかった!私にもできる玉の輿チャンスをつかむ3つのポイント
メアリーの玉の輿エピソードから学べる、玉の輿にのるチャンスをつかむ3つのポイントをまとめました。
①夫の手助けができる能力の高い女性であること
将来の夫に頼るだけではなく、自分も能力が高い女性であることを目指しましょう。
メアリーは能力の高い女性だったからこそ、将来の国王の嫁に選ばれたのです。
メアリーは、夫のスピーチの原稿を手伝うこともあり、そして短気な夫を支えました。
夫のジョージ5世をサポートし、さらに、イギリス王室の伝統を受け継ぎ、王室の地位を盤石にする手助けをしました。
「地球上で最後に残る国王は、トランプの四人の王様とイギリス国王のみ」といわれます。
微妙な時代に生き残ったイギリス王室へのメアリーの貢献度は、並々ならぬものがあったといっていいでしょう。
②魅力的な女性であること
魅力的な女性であることは、幸運をよびこみます。
手放したくないと思われるほど、魅力的な女性になりましょう。
ヴィクトリア女王は、メアリーの母に好意をもっておらず、むしろ嫌っていたそうです。
でも、ヴィクトリア女王は、そしてエドワード皇太子夫妻も、メアリーのことはとても気に入りました。
母のことは嫌いでも、メアリーを結婚相手に欲しいと思い、長男が亡きあとも「次男のジョージと結婚させたい」と思うほど、メアリーのことを気に入りました。
手放したくないと思わせるほど、メアリー王女が魅力的だったことがわかります。
また、ヴィクター王子もジョージ王子も共に、愛人・求婚者もいましたが、最終的にはメアリー王女を気に入りました。
夫のジョージ5世は、晩年になっても「ますますあなたへの愛が深まるばかりだ」とメアリーに愛の手紙を書いているほどでした。
③教養があること
玉の輿にのりたいなら、教養は必要です。
貴族の家宝を強奪はよくないですが、美術品への審美眼はたしかで、メアリーの教養深さを物語っています。
両親とヨーロッパでの生活で文化的な教養を身に付けたことが、メアリーの魅力をさらに大きくしたといえるでしょう。
教養深いことが、ヴィクトリア女王や夫にも愛される理由になっているのです。