玉の輿エピソード

【ロシア】エカチェリーナ2世の玉の輿エピソードから学ぶ大志を成すためにすべき3つのこと

ネコ先生
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こんにちは!玉の輿専門学校のネコ先生です。

今回は、ロシアで玉の輿にのったエカチェリーナ2世についてご紹介していきます。

エカチェリーナ2世は18世紀のロシアの女帝で、大帝と言われています。

啓蒙思想を掲げて、上からの近代化を進めた啓蒙専制君主の一人として歴史に名前を残す、堂々たる女性です。

それではさっそくいってみましょう!

エカチェリーナ2世の玉の輿エピソード

玉の輿に乗ったエカチェリーナ2世の生い立ち

ドイツ貴族の生まれのエカチェリーナ2世

エカチェリーナ2世は、アンハルト=ツェルプスト侯爵で軍人のクリスティアン・アウグストと、母ヨハンナ・エリザベートの長女として、1729年に北ドイツ、ポメラニア地方シュテッティン(現在はポーランド)で生まれました。

ルター派キリスト教徒として洗礼を受け、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと命名されましたが、後にロシア正教に改宗したときに、エカチェリーナ・アレクセイエヴナと改名しました。

エカチェリーナ2世の母がやり手だった

エカチェリーナ2世の母、ヨハンナ・エリザベートは玉の輿を夢見ていたのに、16歳のときに22歳年上の軍人貴族と結婚させられ、不満がいっぱいだったようです。

母ヨハンナは、当時のデンマーク王家オルデンブルク家の分家であるホルシュタイン=ゴットルプ家出身で、次兄アドルフ・フレドリクは後にスウェーデン国王になった名門貴族ですから、一軍人貴族の夫人に甘んじてなるものかと思っていたのかもしれません。

ヨハンナは自分が玉の輿に乗れなかったので、娘エカチェリーナ2世の嫁ぎ先には玉の輿をと野心をもっていました。

母ヨハンナは田舎の城にこもるよりも、エカチェリーナ2世や夫を連れて旅行に出るのが好きでした。

ドイツ中の親戚の招待を受けて、親戚とのいわゆる顔つなぎ的な付き合いをしていたのですが、エカチェリーナ2世も幼い頃から礼儀作法をみっちり仕込まれた上で社交界の大人の世界を経験していたのでした。

招待を受けた親戚の中には、母ヨハンナの従兄の息子で、ロシアのピョートル大帝の孫のカール・ペーター・ウルリヒがいました。

カール・ペーター・ウルリヒは将来はスウェーデン国王かロシア皇帝の後継者になると言われており、エカチェリーナ2世よりも1歳年上のこの少年こそが、後のピョートル大公でエカチェリーナ2世の将来の夫となる人でした。

エカチェリーナ2世は11歳のときに、すでに後の結婚相手に会っていたのですね。

家庭教師について勉強し、知性や教養を磨いて魅力的な女性になる

エカチェリーナ2世は回想録を残しているので、子供の頃の心情や出来事など、本人しかわからないようなことが後世の私たちにもわかるようになっています。

エカチェリーナ2世は頭がよく勉強好きで、とても良いフランス人の家庭教師に恵まれたようです。

エカチェリーナ2世は当時の上流階級必須科目のフランス語に堪能で、他の家庭教師や牧師を質問攻めにする勉強熱心で合理的な精神を持った少女に育ちました。

乗馬がうまく、美貌ではないが、知性や教養を磨いて魅力的な女性になる努力をしました。

エカチェリーナ2世は、とても賢い女性で良い教育を受けたのです。

玉の輿の舞台となった時代風景とは

エカチェリーナ2世が生きた18世紀のヨーロッパは、オーストリアではマリア・テレジア女帝、フランスではルイ15世の時代でした。

ロココの時代です。

スコットランドでは、海外ドラマ「アウトランダー」でお馴染みの、ジャコバイト蜂起のカロデンの戦いが1745年に起こっています。

また、1776年にはアメリカが独立宣言をし、1789年にはフランス革命が起こりました。

エカチェリーナ2世の生きた時代は激動の時代でありました。

玉の輿に乗るきっかけ

亡き婚約者が忘れられないエリザヴェータ女帝の縁でロシア皇太子の花嫁候補に

エカチェリーナ2世が14歳のときに、ロシアのエリザヴェータ女帝から招待状が届きました。

エリザヴェータ女帝が即位後、女帝の甥のピョートル大公(あのカール・ペーター・ウルリヒ)を後継者と決め、その花嫁候補としてエカチェリーナ2世と母はロシア宮廷へ招かれたのでした。

エカチェリーナ2世は、本来はロシア帝国の皇太子妃候補になるほどの家柄ではないのですが、エリザヴェータ女帝の婚約者で早世したカール・アウグストが、エカチェリーナ2世の母ヨハンナの長兄でした。

エリザヴェータ女帝は、婚約者をなくした後も彼を想って、その婚約者の家族であるエカチェリーナ2世の母たちとお付き合いを続けていたのです。

こうしてエカチェリーナ2世は、14歳でロシア皇太子妃候補としてロシアに旅立ったのでした。

母ヨハンナ、名門の家柄だけありますね。

気まぐれな義理の叔母エリザヴェータ女帝に気に入られようと努力

エカチェリーナ2世はまだ14歳ながら野心も人一倍あるうえに、とても頭の良い人で自分がどういう位置にいるかということを理解していました。

結婚相手のピョートル大公よりも、エリザヴェータ女帝に気に入られるかどうかが運命を分けることもすぐに理解し、もし皇太子妃になれずドイツへ帰るようなことになれば、どんなにみじめな生活が待っているか、ということもわかっていたのです。

なので、最初からロシアになじむように努力を怠らず、高熱で倒れて生死をさまようほど必死でロシア語を勉強し、父から信仰を捨てないようにと言われていたルター派からロシア正教への改宗もいとわなかったのでした。

こういうひたむきさ、積極的にロシアになじもうとするエカチェリーナ2世の姿勢は、エリザヴェータ女帝からロシアの一般庶民に至るまで、実に好意的に受け取られたのでした。

そしてエカチェリーナ2世は、自分の世話に付けられた侍女たちの会話や、ロシア宮廷の人たちの動静を注意深く観察し、敵を作らずエリザヴェータ女帝の信頼を得るように行動しました。

その結果、母ヨハンナが軽はずみに宮廷の陰謀に巻き込まれて娘の足を引っ張ることをしでかしても、エリザヴェータ女帝のエカチェリーナ2世への信頼はゆるがず、1年半後にはピョートル大公との正式婚約にこぎつけたのです。

健気なというよりもかなり大人びていますが、エカチェリーナ2世はもうこのときから、将来は女帝になるつもりでいたというからすごいです。

頼りない皇太子とも一生懸命コミュニケーションをはかる

エカチェリーナ2世の婚約者である皇太子ピョートル大公は、成長しても兵隊ごっこが好きという、おそらく知的障害を伴い、心身ともに虚弱な人であったようです。

皇太子ピョートル大公はドイツ生まれでドイツ語しか話せず、ロシアになじもうともしないし、エカチェリーナ2世のことも自分の将来の妻として関心を寄せることもなく、ドイツ語で会話できる相手として接しただけでした。

人並み以上に賢いエカチェリーナ2世には、まったくもって物足りない人間であったはずですが、それでも一緒に兵隊ごっこをしたりして夫の関心を得ることにつとめたのです。

婚約中にピョートル大公は疱瘡にかかり、幸い治ったものの顔にあばたが残りました。

病後に対面したエカチェリーナ2世は「正視に堪えなかった」と部屋に帰って母の胸で泣いたそうですが、それでも結婚する気は変わらなかったようで、ピョートル大公ではなくロシア国家と結婚するんだという意気込みをもっていたのです。

結婚に甘い夢を抱く年頃のはずなのに、エカチェリーナ2世は並大抵の人物ではないことがわかりますね。

これはスゴイ!さすが玉の輿の生活!権力と財力がわかるエピソード

エカチェリーナ2世の回想録によると、結婚式のときの王冠は宝石の重さで頭が破裂しそうに痛くなったそうです。

そして王冠を外してもいいかと聞くと「縁起が悪い」と言われ、エリザヴェータ女帝の許可が出てやっと外せたということです。

ずっと後、1908年にスウェーデン王子と結婚した、エカチェリーナ2世の子孫の一人でもあるマーリヤ大公女の自伝「最後の大公女マーリヤ」によると、エカチェリーナ女帝の頃から代々のロシア大公女が結婚式に付ける宝石の話が出てきます。

「真ん中に不思議な輝きを湛える巨大なピンクのダイヤモンドがはめ込まれたエカテリーナ女帝ゆかりの宝冠と、深紅のベルベット地に無数のダイヤモンドがびっしりと縫い取られた小型の王冠」「大粒のダイヤモンドを繋げた首飾り、腕輪、それに、あまりに重量過ぎるために留め具の黄金の輪を耳全体に引っ掛けて通す仕組みになった、サクランボの形をしたダイヤの耳飾り」

エカチェリーナ2世もマーリヤ大公女も、これらの豪華な宝石を身に付けたのでした。

マーリヤ大公女は、結婚式の正装と宝石で身を固めた自分を「満艦飾」と表現していました。

エカチェリーナ2世の結婚式もこんな感じだったでしょう。

玉の輿のその後

エリザヴェータ女帝公認の相手と不倫関係に

エカチェリーナ2世と夫ピョートル大公とのあいだにはとても子供が得られそうにありませんでした。

結婚後何年たっても、ピョートル大公はベッドにたくさんの人形を置いて兵隊ごっこをするだけだったのです。

エリザヴェータ女帝は気まぐれで享楽的な人で、仮装舞踏会などを催したり宮廷を引き連れて旅行したりするのを好んだのですが、エカチェリーナ2世はその享楽的な風に染まらず、モンテスキューの「法の精神」などの読書に励んで一心に勉強し、旅行してもロシア国民の暮らしなどを観察していたということです。

エカチェリーナ2世は23歳頃に、貴族の男性と恋愛模様があり関係を結びました。

そして生まれたのが、息子のパーヴェル大公でした。

当時から誰もピョートル大公の子供だと思った人はいなかったそうですが、エリザヴェータ女帝は不倫を咎めるどころか、大喜びで生まれたばかりの赤ちゃんをエカチェリーナ2世から取り上げて自分で養育しました。

エカチェリーナ2世は子供が出来ないからとドイツに返されるのではないかという不安が消えたのか、この出産を境に、見違えるように自信をもって政治家や軍人と関わるようになりました。

エカチェリーナ2世は自分の子供にも会わせてもらえず、わがままで気まぐれなエリザヴェータ女帝のご機嫌を伺いながら生活していたとはいえ、不安を持ちながらも有益な書物を読書する、というはけ口を見付けました。

読書から知識や教養を身に付けたことが結果的に大きく役に立つことになったのです。

なんとクーデターでロシア帝国の女帝になる

エリザヴェータ女帝が亡くなり、エカチェリーナ2世の夫はピョートル3世として皇帝になりました。

エカチェリーナ2世が30歳のときです。

そのとき夫には愛人がいて、エカチェリーナ2世と離婚してこの愛人と結婚するとエカチェリーナ2世を脅していました。

もしそうなれば単なる離婚ではなく、エカチェリーナ2世はどこかに閉じ込められて、殺害されることになるはずです。

エカチェリーナ2世はエリザヴェータ女帝が亡くなる前から、その時の準備は出来ていました。

エカチェリーナ2世のこの時の愛人は、軍人のグレゴリー・オルロフでした。

夫ピョートル3世はロシア帝国の継承者の自覚が全くなく、ドイツの故郷のプロイセン王を崇拝し、ドイツ軍の軍服を好み、戴冠式も行わず、ロシア貴族にもロシア軍にも全く人望がありませんでした。

対して、エカチェリーナ2世側は側近たちが貴族の支持を取り付け、また愛人のオルロフ5兄弟が全員軍にいてロシア軍に人望が厚いエカチェリーナ2世に味方するよう働きかけていました。

結果として、エカチェリーナ2世はピョートルから政権を奪うことに無血で成功し、女帝となったのでした。

なお、9歳になっていた息子のパーヴェル大公が大人になるまでの摂政という、つなぎのつもりはなく、エカチェリーナ2世は親政するだけの能力を持っていたのでした。

水を得た魚のように政治、文化にも君臨

エカチェリーナ2世は、今まで読書して得た知識や教養を、実際の政治に生かしてロシアを改革することに着手しました。

トルコ、オスマン帝国との戦争や、ポーランド分割などで領土も拡大し、エカチェリーナ2世の治世は成功に次ぐ成功をおさめました。

また、エカチェリーナ2世はフランスの文化人たち、哲学者のヴォルテール、百科全書派のディドロらと文通をするようになりました。

エカチェリーナ2世は女帝となり自由にお金を動かせるようになると、文化人らに資金援助するなどパトロンにもなったので、ヴォルテールらは「エカチェリーナ2世がいかに教養ある文化人で気前がよいか」という宣伝に努めてくれたのです。

その結果、フランスの教養人などに、エカチェリーナ2世の教養やロシアが野蛮な国ではないことが広まることとなりました。

そして、文化人が職を求めてロシアにやって来るようになったということです。

それからエカチェリーナ2世は、ロシアに自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興といった、啓蒙思想に基づいた近代化政策もすすめました。

孤児院を建設し、貴族の子女のための学校スモールヌイを創設し、エルミタージュ美術館の前身にあたる別邸エルミタージュを建設し、美術品の収集も行いました。

建築家を抱えて、タブリダ宮殿、パヴロフスク宮殿、アレクサンデル宮殿などの建造物も多く作りました。

これだけのことを成し遂げたエカチェリーナ2世は、やはり並大抵の人物ではないと思います。

エカチェリーナ2世は、女帝として即位後、愛人を何人も作りましたが、グレゴリー・ポチョムキン以外には政治に口を出せるような人物はいませんでした。

また、パーヴェル大公の他に庶子を何人も儲けましたが、期待はずれの子供ばかりでした。

晩年は、息子パーヴェル大公に見切りをつけて、孫のアレクサンドルを後継ぎにしようと考えていましたが、それを実行する前に脳梗塞で倒れて亡くなりました。68歳でした。

ドイツの故郷を離れ、たった一人で異国にお嫁に行き、ロシア人となって成し遂げたエカチェリーナ2世の偉業は、今に残るエルミタージュ美術館の美術品の数々や、豪華な宮殿の数々でしのぶことが出来ます。

参考文献 「女帝エカテリーナ」アンリ・トロワイヤ著 「最後のロシア大公女マーリヤ」

玉の輿エピソードからわかった!玉の輿に乗って大志を成すためにするべき3つのこと

①占いを信じて突っ走る

エカチェリーナ2世が子供の頃、僧侶に手相を見てもらったところ、「3つの王冠が見える」と言われたそうです。

エカチェリーナ2世の前半生の生活は「自分以外の人がこんな目に合えば、きっと気がおかしくなっているだろう」と言っているくらい大変なものでした。

大変な生活の中でも、自分の才能を生かすために、運命的なものを感じ占いを信じて必死でがんばったのではないかと思うのです。

「何か苦難に打ち負かされそうになるたびに、生きる喜びを思って立ち直る。すべてに耐え、克服するためには、とにかく朗らかでなければいけない」と、常に楽観的であれ、がエカチェリーナ2世の心情、人生観でありました。

もし占いで「すごい玉の輿に乗る」と言われたとしても、ぼんやりと待っているだけではなくて、占いを信じて行動する、石にかじりついても成し遂げる固い意志、そして婚家にしっかり馴染む努力も必要だと言えます。

②あくまで謙虚に、結婚を後押ししてくれる人の心をつかむ

結婚したい人がいたら、そのご両親に気に入られることは必須です。

結婚したくても親の反対で結婚がダメになることは多いですし、結婚後も義理の両親とのお付き合いは続いていきます。

義理の両親に気に入られれば、結婚は成功したも同様です。

エカチェリーナ2世の場合は、結婚するために気に入られるべき相手はエリザヴェータ女帝でした。

エカチェリーナ2世はロシアの女帝になる野心は持っていてもそれをあらわにはせず、一生懸命に、わがままな専制君主の義理の叔母エリザヴェータ女帝に気に入られようとしました。

エリザヴェータ女帝は皇帝で専制君主ですから、この人に逆らったり嫌われると、結婚前は単にドイツへ帰されるだけでしたが、結婚後は、幽閉された後に殺されることを意味します。

ロシアですからね。

宮廷生活というのは、色々な陰謀があったり、疑いを掛けられたりしてあっという間に失脚するところですし、エリザヴェータ女帝は周りの人間を振り回すような、気分の移り変わりの激しい人だったようなので、エカチェリーナ2世が上手に立ち回らないと、えらいことになっていたかもしれません。

エカチェリーナ2世の夫は頼りにならないどころか、エリザヴェータ女帝に嫌われていて、同類と思われると困るレベルだったので、エカチェリーナ2世はかなりの忍従を持って生活していたようです。

エカチェリーナ2世がすごいのは、その忍従生活を耐えた後、例えばマリー・アントワネットみたいに自分勝手に贅沢をしたのではなくて、親政を行ってロシアを改革しようとしたことなんですね。

なので、読書をして教養を身に付けていたのです。

自分の利益だけを考えて相手に媚を売るとか、「何が何でもロシア皇太子妃になりたい」と地位に目がくらんだとか固執したという、そんな安っぽい志ではなく、ロシアのためになる改革をしようとしたところがまたすごさを感じます。

③親戚の縁を大事にすべし

エカチェリーナ2世は、母がエリザヴェータ女帝の婚約者やピョートル大公と親戚だった縁でロシアに招かれたことをきっかけに、後の皇帝ピョートルと結婚することになったのでした。

親戚関係からのご縁というのもよくあることなので、やはり普段から親戚づきあいは大事にした方が良いです。

人はどこでどう繋がっていくかわかりませんし、思わぬところに素敵な玉の輿の出会いが待っているかもしれません。