【フランスで玉の輿】愛人問題も華麗にスルーして幸せを引き寄せたマリー・レクザンスカ

ミサキ編集長
今回は、フランスでいわゆる玉の輿にのったマリー・レクザンスカのストーリーを紹介します。

マリー・レクザンスカは、フランス国王ルイ15世の王妃となった女性です。

ここでは、実際にあった玉の輿のエピソードから、どうやって玉の輿による結婚を成功させたのかというポイントやノウハウをご紹介していきます。

さっそく今日からできることを少しずつでも真似して実践していってください。

それではさっそくいってみましょう!

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目次

マリー・レクザンスカ王妃の玉の輿エピソード

玉の輿に乗ったマリー・レクザンスカ王妃の生い立ち

マリー・レクザンスカは、フランス国王ルイ15世の王妃です。

ポーランド王で後にロレーヌ公となった父スタニスワフ・レシチニスキ、母カトリーヌ・オパリンスカの次女として、1703年に、シレジア地方のチュシェブニツァ(ドイツ名はトレブニッツ)で生まれました。

マリア・カロリーナ・ソフィア・フェリシアと名付けられました。
以下、フランス名のマリーと呼びますね。

ポーランド国王の娘だが亡命生活に

マリーの生まれた次の年に父スタニスワフがポーランド王になりました。

マリーの父は貴族でしたが、スウェーデン王カール12世が、ポーランドに侵攻してスウェーデンに敵対する当時のポーランド国王アウグスト2世を追い出し、代わりにスタニスワフをポーランド王にしたのです。

なので、代々のポーランド王室の家柄というわけではなく、またマリーの父が軍を率いて勝ち取った王位ではないため、立場的には非常に弱いものでした。

そして1709年にポーランドを巡っての戦いで、頼みの綱のスウェーデン国王カール12世がロシアのピョートル大帝に敗れると、マリーの一家は亡命して、最初はスウェーデン、次にツヴァイブリュッケンに、そして1718年にはアルザスのヴィッサンブールに移ったのです。

亡命生活中に教養を身につける

亡命生活は、貧しく辛いものでしたが、マリーは成長過程でスウェーデン語とドイツ語を会得しました。

亡命王族というのは、受け入れる国(国王)が年金を支給して面倒を見るのですが、マリー達一家もフランス国王が気の向いたときに与える年金で生活していたので、雇い人に賃金を払えず、マリーの母の宝石を質に入れなければならなかったほどでした。

マリーの父はこのような亡命生活で、良い結婚は期待できないと思い、マリーに礼儀作法をきびしく教えて、ダンスや楽器を学ばせたと言うことです。

マリーは美貌というほどでもないけれど、優雅な立ち居振る舞いで優しい容姿の女性に成長しました。

お年頃になると、何人かの貴族たちから求婚されたのですが、あまりに貧乏なので、相手家族の反対があったりして成立しなかったようです。

舞台となった時代背景

ルイ15世はフランス王室唯一の生き残りだった

マリーの夫となるルイ15世は、曾祖父ルイ14世の死後、わずか4歳で即位しました。

というのは、ルイ14世は76歳まで長生きしたのですが、息子の王太子ルイとその妻の王太子妃、次いで孫息子とその妃が、ルイ14世よりも先に相次いで若くして亡くなってしまったのです。

ルイ15世の両親は、政略結婚ではあっても愛のあるご夫婦だったので、麻疹にかかった家族を付きっきりで看病したのが仇になって次々と感染して亡くなってしまったのでした。

そのうえにこの時代は病気になると、「瀉血」といって、血を抜くことで悪いものを出すという治療をしていたのです。

ただでさえ病気で体力が消耗しているところに血を抜くのですから、ひとたまりもありません。

ルイ15世の幼い兄も病気の上に瀉血されて衰弱して亡くなったのですが、ルイ15世は、しっかりした乳母がついていて、幼子だったルイ15世を病気の家族から遠ざけ、瀉血もさせなかったので助かったのでした。

この結果、ルイ14世の後継ぎは一時は6人もいたのに、幼いルイ15世たった一人になったのです。

ルイ15世の婚約解消でお妃の選び直しがされた

ルイ15世が即位したときは、ルイ14世の弟の息子である大叔父のオルレアン公フィリップが摂政でした。

摂政は、ルイ15世が11歳になると、スペインのフェリペ4世の王女で従妹にあたるマリアナ・ビクトリアと婚約させました。

このスペイン王女は4歳でフランス王宮にやってきていて、大人になれば結婚する予定でした。

それで、オルレアン公が亡くなった後は、ルイ14世の庶出の孫でもある傍系王族のブルボン公が摂政を務めていましたが、ルイ15世は14歳の頃、生きるか死ぬかの大病を患ったのです。

もちろん、かろうじて回復したのですが、摂政のブルボン公は、ルイ15世がもし早死すれば、直系の後継ぎがなくなると恐れました。

なにしろルイ15世の婚約者は、まだ6歳なので、正式な結婚をして後継ぎが生まれるまで10年はかかる、王女が大人になるのが待てない、ということで、婚約を解消してルイ15世に出来るだけはやく結婚させようとしたのでした。

ルイ15世だって14歳では子供同然なのですが、フランス国王の成年は13歳と決まっていた時代なんです。

もうひとつの問題は、スペイン国王はルイ15世の父の弟でもあったので、ルイ15世が亡くなった場合、スペインがフランスの王位継承に関わってきて、戦争になることは必至と考えられました。

フランスはルイ14世の時代に戦争に次ぐ戦争で国庫は火の車だったので、またもやの戦争は避けたかったのですね。

ということで、スペイン王室との関係悪化を承知で婚約破棄し、さっさと王女をスペインへ送り返したのです。
(後にこの王女はポルトガル国王と結婚しました)

そして、あらたにヨーロッパ中の未婚の王女たちを花嫁候補としてリストアップしたのでした。

マリーが玉の輿に乗るきっかけとなったできごと

プリ夫人が、マリーを推薦し、ルイ15世のお妃に選ばれる

ルイ15世の花嫁候補をリストアップしたのは、ブルボン公の愛妾のプリ夫人でした。

まず、ヨーロッパ中の99人の未婚の王女たち(この花嫁候補のリストが、ちゃんと残っているそうです)から、年齢その他で17人に絞り、イギリス王女はカトリックへの改宗がだめとか、さらに候補を絞って行きました。

そのなかでは摂政のブルボン公の妹も候補で、ブルボン公は妹を王妃にしたかったのでした。

まるでおとぎ話みたいですが、プリ夫人が身分を隠してブルボン公の妹に会いに行ったところ、妹はそれとは知らず兄の愛妾であるプリ夫人の悪口をあからさまに言うので、プリ夫人は別れ際に「あなたは絶対に王妃になれませんことよ」と言い放ったという話は有名です。

ということで、マリーはこのとき22歳で、ルイ15世よりも6歳年上であることと、亡命王族として経済的に困窮していたのでリストから外されていたのですが、じつはプリ夫人は、ルイ15世の花嫁候補以前に、マリーを、自分の愛人であるブルボン公の後添いとして候補に挙げていたのです。

プリ夫人は、マリーがブルボン公と結婚して正夫人となっても、愛人である自分の意に逆らえないと考え、マリーの父にも打診し、肖像画を描かせておいたのでした。

プリ夫人はこのことを思い出して、摂政ではなくルイ15世の王妃に推薦し、色々と反対意見はあったものの、ルイ15世が承諾したので、マリーは王妃となることが決まったのでした。

ブルボン公の意向は通らず、愛人プリ夫人の思惑が通るのがすごいですよね。

ルイ15世に気に入られる

ルイ15世は、こどもの頃は成長が早かったのに、なかなか女性に興味を示さず側近をはらはらさせたようです。

が、肖像画を見てマリーをとても気に入り、ぜひ結婚したいと言ったということです。

15歳と22歳のカップルの誕生でした。

また、この時代なので、ルイ15世とマリーが初めて会ったのは結婚式の前日ですが、ふたりとも一目惚れだったということで、結婚後はとても仲が良く、ルイ15世は他の女性には見向きもしなかったのでした。

これはスゴイ!さすがの財力と権力がわかるエピソード

豪華な結婚式

結婚式は1725年9月、フォンテーヌブロー宮殿で行われました。

白貂の毛皮で縁取られ金色の百合(フランス王家の紋章)を散らした紫色のビロードの衣装を着せるのに、3時間かかったと言います。

もちろん、結婚後は、ベルサイユ宮殿に住んでいました。

二ノン・ド・ランクロのしゃれこうべを持っていた

華やかな宮廷生活の中で、ときに虚栄や虚飾を空しく感じる貴族のなかには、「死を忘れることなかれ」と虚無感や無常観を感じるために、しゃれこうべなど死の象徴を飾り、瞑想する習慣があったのです。

マリーも敬虔なカトリック教徒として、部屋にしゃれこうべを飾り(リボンやレースを付け「愛するお稚児さん」と呼んでいた)、ルイ15世が訪れるとそれを触るように促したのでした。

そしてそのマリー所有のしゃれこうべは、ルイ14世の時代に有名だった二ノン・ド・ランクロのものだということでした。

二ノン・ド・ランクロは、大変な美人で長生きし、サロンを主宰して文人らと交わった有名人です。

モーツアルトに会った

1764年、ベルサイユ宮殿に招かれたモーツアルトは、宮廷の人たちを魅了したようです。
マリーはドイツ語が出来るので、ルイ15世はじめ王族達に通訳をしたのです。

モーツァルトに実際に会って演奏を聞いたなんて、すごいですよね。

玉の輿のその後

浮気しまくるルイ15世

ルイ15世との間にできた子供は毎年のように2男8女(双子を含む)が生まれました。

ここでめでたしめでたしのはずなのですが、フランス宮廷というのは、こういう、ご夫婦がうまくいっている、家庭的な国王一家を喜ぶどころか、こんな退屈な宮廷では当時の風潮に合わないとばかりに、ルイ15世にマリー以外の女性をすすめまくったのでした。

宮廷に出入りする貴族の若い女性たちも、われこそはとばかりにルイ15世に媚を売りまくったんですね。

結局は結婚8年後には、ルイ15世は次から次へと愛人を作りまくるようになりました。

ルイ15世は、肖像画を見てもお分かりかと思いますが、大柄でかなりのイケメンです。

そして「最愛王」というニックネームが付くほど、浮気しまくった王様なんです。

マリーも度重なる出産に疲れ果てる

マリーは、敬虔なカトリック教徒なので、最初こそルイ15世の浮気を咎めていましたが、若い浮気相手に嫉妬したり競争する気はなく、逆にボンネットをかぶって老けっぽい格好になり、どんどん老け込んでいきました。

マリーいわく、「絶えず妊娠して、絶えず子供を産んでいる」という状態で、10人も子供を産んだその後は、フランス王妃としてのしきたりやエチケットをきっちり守り、時々カード賭博などで借金は作ったものの、地味に信仰に生き43年もの長きにわたり王妃であり続けたのです。

ポンパドゥール夫人とのエピソード

フランス国王の正式の寵姫というのは、きちんと認められて初めて宮廷での地位が定まるらしく、王妃に正式に紹介される儀式があるのですね。

後年、マリー・アントワネット王太子妃がデュバリー夫人に声をかける、かけないで、もめた話は有名ですが、あれがそうなのです。

ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人も、マリーに紹介され、言葉をかけてもらうことになったのです。

ポンパドゥール夫人を紹介する人も用意されました。

この人は貴族の女性ですが、ルイ15世が特別にその人の借金を肩代わりするという条件で引き受けさせたのでした。

マリーとポンパドゥール夫人の対面の様子について、まわりの人たちは、当たり障りのないドレスの話題だろうと、それでも興味津々で見ていたのですが、ひどく緊張するポンパドゥール夫人に対し、マリーはポンパドゥール夫人と共通の友人を話題にして、ポンパドゥール夫人を感激させたのでした。

ポンパドゥール夫人の「王妃様のお気に入りたい一心でございます」というのは、心からの言葉であると思います。

マリーは、「どうせ誰かが寵姫になるならば、あの人がいい」と言ったということですが、これは大人の振る舞いとしてなかなか出来ないことだと思いました。

もちろん、ポンパドゥール夫人は王妃をないがしろにすることなく、その後も敬愛していたそうです。

マリーのエピソードはあまり伝わっていないのですが、その中でもとても印象的なエピソードです。

マリーは地味な存在ながら、王妃として敬愛されていたのだと思います。

マリーの晩年

マリーの長男で唯一の後継ぎのルイ王太子は、最初のお妃が亡くなった後、ドイツの皇女との再婚をしました。

マリーはこの皇女の父が自分の父とポーランド王位をめぐって争い、父が破れたことを忘れていなかったので、結婚に反対したのですが、その意見は通りませんでした。

しかしこの嫁はけっこうできた人で、王太子には前妻を忘れなくてもいいのよと言い、マリーに対してもマリーの父(義理の祖父)にも敬愛の情をあらわしたのです。

その後生まれた孫(後のルイ16世の弟のルイ18世)には、マリーの父の名スタニスラフが付けられています。

マリーは、長男に先立たれたショックから立ち直れず、さらに父、長男嫁が相次いで亡くなった後、65歳で亡くなりました。

フランス王妃としては地味な存在でしたが、王妃としての43年間は最長在位記録になっています。

参考文献(Amazonリンク) フランスの歴史をつくった女性たち 第5巻 ギ―・ブルトン著
フランス女性の歴史 2 君臨する女たち アラン・ドゥコー著
ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルヴロン著

玉の輿エピソードからわかった!幸せを引き寄せたマリーから学べる3つのこと

①貧しい生活でも希望を失わない

マリーは自分から望んだことではないのですが、なぜか王妃の座についてしまいました。

ポーランドから亡命し、外国でのつらい暮らしのなかで、信仰を持ち希望を失わず、自分をしっかり持って成長したからなのでしょう。

玉の輿にのったのはマリーの意志ではなく、摂政ブルボン公の愛妾プリ夫人の都合で決まったようなものですが、あまりに身分が違うとか、貧乏だとか、傍系のオルレアン公家などからも反対されたものの、マリーが敬虔なカトリック教徒で性格が良い、教養がある、すぐに子供が産めそうな健康体である、などと言う利点が認められたのです。

どの資料や本でも、マリーはそれほどの美人ではないとあるのですが、年下のルイ15世を魅了する魅力は持っていたのですね。

②玉の輿にのっても舞い上がらない

マリーは結婚当初、自分を推薦してくれたプリ夫人や摂政ブルボン公への恩を忘れていませんでした。

プリ夫人に言われた通りに、夫のルイ15世に進言したり会う機会を作ったりしたのですが、プリ夫人と摂政ブルボン公は私利私欲にまみれフランス政府の財政を破綻させただけでなく、政敵を貶めようとしたことがきっかけで逆に失脚してしまったのです。

マリーはこの騒動に一役買わされましたが、利用されただけだったので、ルイ15世の守役でもあった宰相のフルーリ枢機卿にお小言を喰らった程度で済みました。

以後、マリーは政治に口出しするようなことはなく、王妃として権力を行使したりすることもほとんどありませんでした。

王妃になっても舞い上がらないマリーは、子供の頃に亡命生活で貧乏を経験したせいか、衣装にも凝らず、豪華な改装もしない部屋に住み、使用人にも気を使い、貧しい人々の気持ちもわかるという、優しい人柄であったということです。

③夫の愛人問題を華麗にスルーして家庭円満

ルイ15世は「最愛王」と呼ばれたほど、数々の愛人を作りましたが、マリーはそのことに対しても受け流し、王妃としての立場を守りました。

ルイ15世もマリーをないがしろにはせず、週に2度は家族と夕食をとるという習慣を守りました。

残念ながら36歳でマリーより先に早世したルイ王太子(ルイ16世の父)も、父のルイ15世とは違う、家庭を愛し信仰深い尊敬される家庭人だったようなので、マリーの良い影響を受けたのではと思います。

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