玉の輿エピソード

【フランス】カトリーヌ・ド・メディシスに学ぶ玉の輿にのった結婚後の苦悩をのりこえる3つのヒント

ネコ先生
ネコ先生
こんにちは!玉の輿専門学校のネコ先生です。

今回は、フランスで玉の輿にのったカトリーヌ・ド・メディシスのストーリーについてご紹介していきます。

カトリーヌ・ド・メディシスはフランス国王ヴァロア朝のアンリ2世の王妃となった女性で、フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母でもあります。

カトリーヌ・ド・メディシスの玉の輿エピソード

カトリーヌ・ド・メディシスの生い立ち

カトリーヌはイタリアのメディチ家の跡取り娘でした。

カトリーヌは1519年にイタリアのフィレンツェで、父ウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(イル・マニフィーコの孫)と、フランスのオーヴェルニュ伯ジャン3世の娘である母マドレーヌの間に生まれました。

カトリーヌが生まれてすぐに相次いで母と父が亡くなり、孤児となってしまいます。

カトリーヌは孤児となってもメディチ家本家の跡取り娘であり、母のフランスの遺産も継いでいました。

なので父方の祖母、祖母亡き後は叔母たち、そして叔父のローマ教皇法王レオ10世の下でカトリーヌは大事に育てられました。

ローマ教皇法王レオ10世の死後、1523年にもう一人の叔父であるクレメンテ7世がローマ教皇になり、カトリーヌはローマへ呼び寄せられました。

舞台となった時代背景

ハプスブルグ家のマクシミリアン皇帝とライバル関係にあったフランス王フランソワ1世は、イタリアと同盟していました。

そもそもカトリーヌの父と母の結婚も同盟の一環としてフランソワ1世の紹介がきっかけだったので、フランソワ1世はカトリーヌの後見人を希望したくらいなのです。

そして、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世も、カトリーヌを強力な政略結婚の駒として見ていたので、カトリーヌの結婚相手に色々な相手を探していましたが、結局はフランス王フランソワ1世の次男であるオルレアン公アンリと結婚させることにしました。

カトリーヌが玉の輿にのるきっかけ

フランソワ1世はローマ教皇クレメンス7世が膨大な持参金をつけるといったこと(クレメンス7世の死亡で持参金は未払いとなった)や、イタリアとの関係強化が目的で、カトリーヌと息子との結婚を実現しようとしました。

しかしフランス貴族の間でメディチ家は銀行家とか商人の印象が強く、フランス王家の婚姻相手としては不釣り合いであるという意見が多かったのです。

そんななかでフランソワ1世の宮廷にいた貴族の夫人が、カトリーヌの母方がフランス貴族に連なり自分の親戚でもあることを示唆して、カトリーヌがフランス王家に嫁ぐ資格のある血筋であることを進言しました。

それを聞いたフランソワ1世は安心してカトリーヌを次男アンリの嫁として迎えることにしたのです。

1533年にマルセイユでローマ教皇の司式で盛大な結婚式が行われました。

フランソワ1世に進言した貴族の夫人の名はディアーヌ・ド・ポアチエといい、カトリーヌの夫アンリの寵姫として宮廷に君臨し、カトリーヌを悩ませることになる女性です。

ディアーヌがいなければカトリーヌはフランス王妃になっていなかったかもしれません。

歴史というのは不思議なめぐりあわせだといえます。

これはスゴイ!さすがの財力と権力がわかるエピソード

現在のフランス料理の基礎を築いた

歴史学者の間では「証拠がない」という意見もありますが、カトリーヌによってイタリアから連れて来た料理人たちが、現在のフランス料理の基礎を築いたといわれています。

フランス料理のシェフやお菓子のパティシエたちの間では、ソースやお菓子などはカトリーヌがもたらしフランス料理の基礎となったとされているのです。

スイーツ好きなカトリーヌは、アイスクリームやシャーベットを作る職人を連れて来ました。

それまで手づかみで食べていたところへフォークや食器を持ち込み、食事の作法を取り入れたのもカトリーヌであるとされています。

ノストラダムスに占ってもらった

あの「ノストラダムスの大予言」で有名なノストラダムスをはじめとして、カトリーヌは何人ものお抱え占星術師を持っていました。

ミサキ
ミサキ
フランス映画「王妃マルゴ」で、カトリーヌが死刑囚の死体の内臓を一つ一つ取り出して占いをしているシーンを見たことがある・・・

また、ノストラダムスはカトリーヌに「サン・ジェルマン」に気を付けるようにと助言したので、サンジェルマン宮殿に近寄らないようにしたとか、サンジェルマン通りとか「サンジェルマン」と名のつくものに気を付けていたようです。

でもカトリーヌが69歳で病床についたときに修道僧が現れて、「サン・ジェルマン」と名乗ったとき、もう助からないと覚悟を決めたそうです。

ルネサンス時代のパトロンになった

カトリーヌは義父であるフランソワ1世の影響を受けて、フランス・ルネサンス時代の芸術家のパトロンとなりました。

タペストリーや肖像画など膨大なコレクションを残し、シュノンソー城やチェイルリー宮殿などの建築も行いました。

玉の輿のその後

7年以上子供が生まれず離婚の危機に

カトリーヌは14歳で結婚後、同い年の夫アンリに恋したようですが、アンリはカトリーヌを嫌い20歳も年上のディアーヌ・ド・ポアチエに夢中でした。

結婚したあと何年も子供が出来ないのは悩みの種でした。

アンリはフィリッパ・ドゥーチに庶子を産ませたので、子供が出来ないのはますますカトリーヌの責任とされて肩身の狭い思いをしました。

そしてアンリの兄皇太子フランソワが未婚で若くして急死し、アンリが皇太子になると不妊はさらにプレッシャーになりました。

カトリーヌ嫌いなアンリは離婚を脅すようになり、カトリーヌは義父のフランソワ1世に「離婚後は新しい皇太子妃に仕える」などと嘆願しました。
フランソワ1世は健気なカトリーヌをかばってくれたようです。

そしてカトリーヌは、不妊を治すというありとあらゆる妙薬を体に塗ったり付けたりし、ラバの尿を飲むことまで試しました。

最終的には医師にかかって、いままではいけないといわれた時期にアンリとベッドを共にするように言われて実行したら、たちまち妊娠、長男フランソワを皮切りに結局は5男5女、10人の子供が続々と生まれたのでした。

子供が生まれても愛は返らず

めでたく後継ぎは生まれ、その後夫アンリは国王アンリ2世として即位しカトリーヌは王妃となりました。

でもアンリは相変わらずディアーヌに夢中でした。

そして子供たちも生まれるとすぐに田舎へ送られて育てられ、少し大きくなって宮廷へ戻された後はディアーヌが養育係として教育を任されていました。

カトリーヌはそれでもじっと我慢していましたが、夫アンリが馬上槍試合トーナメントの事故で亡くなった後、本領発揮をしはじめます。
16歳の息子フランソワ2世が即位し、以後30年に渡ってカトリーヌは王太后として君臨したのです。

カトリーヌが王太后として君臨したのは宗教改革の時代で、フランスはユグノーとカトリックの勢力争いで内乱の真っただ中でした。

カトリーヌは息子や娘たちを政略結婚の駒として使い、美人女官軍団を組織して有力な貴族を懐柔したりしていました。

暗殺がはびこり、果ては結婚式で集まった有力貴族たちが虐殺される事件もありましたが、カトリーヌの命令で行われたというのははっきりしていません。

69歳で亡くなる

カトリーヌは1589年に69歳で亡くなりました。

カトリーヌが亡くなった8か月後に息子のアンリ3世は暗殺され、カトリーヌの娘マルグリットの夫ナヴァール公アンリがブルボン朝のアンリ4世として即位しました。

マルグリットとアンリ4世は不仲でその後離婚し、アンリ4世はカトリーヌの遠縁のマリー・ド・メディシスと再婚、後のルイ13世が産まれてブルボン朝が続くことになります。

カトリーヌの死はヴァロア朝の終焉でもあったのでした。

参考文献(Amazonリンク) カトリーヌ・ド・メディシス 上巻下巻 ジャン・オリュー著
フランスの歴史をつくった女たち 第2巻 ギー・ブルトン著
カトリーヌ・ド・メディシス オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト著

玉の輿エピソードからわかった!結婚後の苦労をのりこえる3つのヒント

息子の嫁に見下されることもある

カトリーヌの長男フランソワの結婚相手は、母がフランスの王族であるギーズ公の娘で自身はスコットランド女王のメアリ・スチュワートでした。

メアリは子供の頃からカトリーヌの子供たちと宮廷で一緒に育てられたというのに、カトリーヌのことを「商人の娘」と蔑んでいたようです。

このように、玉の輿の結婚をすると子供の結婚相手から見下されることがあるかもしれません。

結婚ができたからといって安心するのではなく、その後も魅力的な自分であるように努力していきましょう。

自分の息子が性格の良い結婚相手を見つけるよう願うことも必要かもしれません。

子供ができなくてもあきらめない

カトリーヌはなかなか子供ができなくて本当に苦しんだようですが、最終的には10人もの子供を産みそのうちの7人が育ちました。

当時は医学が進歩しておらず、今とは違うとはいえいろいろ怪しげなことをした挙句、結局は良い医師にかかったのが幸いしたのです。

この医師は歴史に名が残っただけでなく破格の報酬も得たそうです。

ということで、玉の輿でなくても不妊にはひとりで悩むよりもすぐに医師にかかるのが大事だということでしょう。

じっと我慢する

夫アンリ2世が生きている間は、カトリーヌはディアーヌにチクリと皮肉を言うことはあっても面と向かって攻撃したりすることはなかったのです。

じっと我慢をしていて、アンリ2世が亡くなるとディアーヌにたいして反撃に出たというわけです。

アンリがディアーヌにプレゼントした宝石や城などを返せと迫ったそうです。

ディアーヌもあっさりとシュノンソー城をはじめとしてアンリからもらった宝石類も、すべて愛の刻印などを溶かして消した後にカトリーヌに返しました。

カトリーヌもそれ以上の仕返しをすることなく、ディアーヌにはシュノンソー城の代わりに城を与えましたが、ディアーヌはもらった城ではなく他の城に引きこもって生涯を終えました。

玉の輿の結婚をすると、お姑さんとか小姑さんとかに身内につらく当たられたりすることが多いですが、カトリーヌの場合を教訓とすれば、つらく当たられても大人の対応でじっと我慢して時が来るまで力を蓄えるべきだということでしょう。